スポンサーリンク

なまらあちこち北海道|栗山監督一問一答

スポーツ

この記事を読むのに必要な時間は約 15 分11 秒です。

WBCの熱気も少し治まり、日本プロ野球界はペナントレースが始まりました。
そんな中、各企業の入社式が執り行われています。世界一になった栗山英樹監督は、あちこちから講演の依頼が来ているそうですが、その合間を縫って実施された「日本記者クラブ」での一問一答の様子をお知らせします。

「翔平の使命感、責任が突き動かして出場してくれた」 栗山英樹監督会見一問一答

 第5回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で日本代表チームを率い、優勝に導いた栗山英樹監督が27日、東京都内の日本記者クラブで行った記者会見の一問一答は次の通り。
会見に臨む栗山監督(玉田順一撮影)

会見に臨む栗山監督(玉田順一撮影)

 <冒頭発言>「WBCをいろいろなところで報道していただき、多くの人たちに野球の怖さ、面白さを伝えていただきました。われわれ現場にも伝わっていましたし、多くの人に応援してもらった。それが力になって結果的に勝ち抜くことできた。
 報道通じて多くのみなさんに応援してもらえたこと、感謝します。約1カ月、短い期間にいろいろなことがありましたけれど、選手たちに頑張ってもらって、勝ちきることができました。話せる範囲で、何が現場で起こっていたのか、皆さんが気になることがあれば、話していきたい」
 ――代表監督としてのプレッシャー、日の丸の重圧は。今回、栗山さんは比較的クールに淡々と、時にはにこにこ対応していたが、大変なプレッシャーがあったのではないか。
 「長嶋茂雄さん(2004年アテネ五輪監督)の時、僕は取材者としてインタビューさせてもらった。戦いに臨むに当たって、王貞治さん、原辰徳さんら野球界の先輩にインタビューしに行った先輩方のアドバイスは大きくて。日の丸のイメージ、プロ野球と結びつかない流れの中、先輩のアドバイスで、比較的心の準備ができ、イメージを持って臨ませてもらった。できる限り、僕の表情、立ち姿が選手たちの不安をあおらないようにした。

 楽しく見てもらうように努力しましたけど、最初の予選4試合は、さすがに、日本代表として戦う中で、予選落ちするわけに行かないプレッシャーがあった」

 「私が日の丸を背負うのは初めて。(サッカー日本代表の)森保一監督と話した際には、日の丸を見て、国歌を聞いた瞬間にスイッチ入ると言われた。僕にとって、最初の試合の時の国歌で感じた思いは特別なものだった。絶対勝たなければいけないという重圧も感じた。日本ハムでの監督時も感じてはいたが、全然違っていた。人生の中で、これから先もあんな感じで自分が追い込まれることはないだろうなと思った」

 ――侍ジャパンの主役である大谷選手については、監督就任にあたり、当初から呼ぶことを考えていたと思うが、米大リーグとの契約の問題や起用法など大変なところがあったと思う。大谷選手がメジャーに挑戦する時もこの会場で発表した。当時、栗山監督がお忍びで来ていて、物陰からこっそり見守っていたのを覚えている。

会見に臨む栗山監督(玉田順一撮影)

会見に臨む栗山監督(玉田順一撮影)

 「あの時は5年間で(大谷)翔平を米国に旅立たせるというイメージあった。5年で無事飛び立っていく時、どういう表情で行くのか、見ようと思って会場に来た。

あれからまた5年がたち、毎年、帰国する度にいろいろな話をするが、今回、代表監督をやるにあたり、個人的な思いは別として、日本野球のため、スポーツ界のため、何が何でも、翔平に限らず、トップ、メジャーリーグでやっている選手を集め、みんなが夢を持てるチームをつくるのが使命だと思った。今回、鈴木誠也選手が、けがで参加できなかったが、ヌートバー選手を含め、5人の選手が来てくれることになった」

 「翔平に関しては、近くでずっと話をしているのもあったが、僕以上に自分が野球界のために何をしなければいけないのか、理解してくれていた。監督を引き受けることを2021年末に発表した頃、一緒に食事をしたが、一切、代表入りの話はしなかった。ただ、僕としても感じるものはあったし、最終的には昨季の終わり頃には、体さえ大丈夫だったら出てくれるんじゃないかという信頼があった。

二刀流であれだけの試合数こなして体的にしんどくても、出場を決断してくれた。それまでに何があったかは話せないところもあるが、彼の使命感、責任が突き動かして、出場してくれたのだと思う」

 ――他国からの取材も大谷選手に集中した一方、指揮官として、他の選手への目配り、気配りが求められたはず。どのように采配したのか。
 「今回はダルビッシュ有投手が来てくれて、チームを引っ張り、まとめてくれたのが大きかった。日本ハム時代も、話すタイミングなど気をつけてやってきたが、トップ選手が多い中、勝つためにやっているということ(共通認識)があったので、選手同士がうまくやってくれた。
 バランス感覚だったり、選手への誠意だったり、思いやりだったり、平等感も大事だが、勝つために何をしたらいいのか、ひとりひとりが使命感を持ってやってくれていた」
 ――村上宗隆選手を4番から外した経緯を聞きたい。5番に下げると決め、本人に告げた時の状況は。
会見に臨む栗山監督(玉田順一撮影)

会見に臨む栗山監督(玉田順一撮影)

 「代表監督として僕がやらなければいけない使命を勝手に決めていて、その中で、ダルビッシュのような、大谷のような、これからの野球界に必要な日本を代表する選手がこの大会が終わった時に、何人か出てくるようにしたかった。
 ピッチャーで何人か、野手で何人かいて、その中の筆頭が村上選手だ。昨年11月に強化試合をやった時は、三冠王を取った後で状態も良く、彼の素晴らしさを感じた。一緒にやってみて、彼の野球への姿勢など、素晴らしいものがあった。どんな選手が代表に来ても彼が4番を打てると思った」
 「だが春先は、オフの間に進化させようとフォーム替えたり、いろいろなことが起こる。思った以上に村上選手は苦しんでいた。僕は、最終的に優勝した瞬間に4番にいればいいという思いはあったが、どう刺激を与えて勝っていくか、毎試合考えていた。
 最終的に、日本に帰国して別れる時に『宿題を持ったまま終わるが、メジャーリーガーを超えて1番になるためには、宿題があった方が前に進める』と伝えた。本人も、次は必ず4番を打つと言っていた」
 「大谷選手や吉田正尚選手など活躍している選手が村上の状態が悪い時に、話をずっとしていた。僕以上に、若い選手たちが、村上の状態が良くなることを求めていた。そういう選手が多くならなければ世界一になれないと思って戦っていたからだ。僕以上に彼らが、僕のやろうとすることを感じて前に進んでくれた。そういう光景を見ているとこのチーム、世界一になれるんじゃないかと思った」
会見に臨む栗山監督

会見に臨む栗山監督

 「なぜ4番を外したかということは、ちょっと話しづらいが、ムネ(村上)には監督室に呼んだり、電話をしたり、ラインでメッセージを送ったりとかいろいろな形で伝えた。
 いつもやっている選手であれば、あえてこっちの意図を伝えないで怒らせるとか、いろいろなやり方があるが、ずっとやっている選手ではないので、きちんと意図を伝えながら前に進んでいったつもりだ。そのやり方が良かったかどうかは正直分からない。もっと違うやり方もあったかもしれないという反省はある。ただ僕は、彼が必ず頂点に立つと信じている。これっぽっちも疑ってない。そこに対してお手伝いをしてあげたいと思っただけ」
 「ムネも結果的に自分が、なかなか全試合で貢献できなかったという思いはあると思うが、チームが勝ちきったことに関して、すごくホッとしているんじゃないのかな。逆に言えば、あれだけの選手も苦しむこともあるし、もっと高みを目指すために努力を続けなければいけない、進化しないといけないんだと。多分、彼が引退するときに、あの23年の春が、僕をつくってくれたと言ってくれることを信じている」
第5回WBCで米国を破って優勝を果たし、選手たちにに胴上げされる栗山監督=2023年3月21日、米マイアミ(共同)

第5回WBCで米国を破って優勝を果たし、選手たちにに胴上げされる栗山監督

 ――間もなくプロ野球が開幕し、エスコンフィールド北海道もオープンする。
日本の野球界へのエールを。

 「準決勝、決勝を行った球場(ローンデポ・パーク)が、エスコンフィールドに似ていると言う方も結構いる。しかし、僕の知る限り、米国の全ての球場を見ても、今度北海道にできる球場は世界ナンバーワンの球場だと思う。施設の造りを含め、非常に素晴らしいものになっている。

 ここが起点になって、日本の球場がどんどん変わっていくはずだし、野球場に限らず、スポーツの競技場というものの意味が変わるきっかけになるのかなと個人的には思っている」

 「あれだけの施設を造れば、選手もそれに対して応えなければいけないという責任感も生まれるし、ファンにも喜んでもらえると思う。多くの人が球場に足を運んでくださる中で、『野球って面白いんだよ、すごいんだよ』と伝えてくれた選手たちが、また同じように活躍してくれるはずだ。

 観戦して感動するのは、選手の能力や技術かも知れないが、ひとりの人間が全てを懸けて全力を尽くす、泥まみれになってやりきる姿がやっぱり感動を呼ぶと監督をやっていて思った」

 「代表には全球団の選手がいたので、その選手たちがプロ野球を盛り上げてくれると思う。日本代表監督を務めた長嶋さんは、選手たちに『あなた方は野球界の伝道師なんです』と伝えた。そのことは改めて選手たちに伝えさせてもらった。あなた方が日本の野球を背負って行ってくださいということは選手たちに伝えた。彼らが、子供たちが喜んでもらえる野球を見せてくれると信じています」

 ――村上選手と牧原大成選手について。村上選手は4番から打順を下げた準決勝、逆転サヨナラ打を放った。3三振した後、代打を送る選択肢はなかったのか。牧原選手は直前に追加招集され心身ともに準備が難しい面あったと思う。

 「牧原選手とは、すぐ連絡を取り、どういう意図か説明させてもらった。元々、選手のけがは想定していて、その中で内外野、センターライン、ショートもできてスピードもあるのは牧原だった。

実を言うと同じソフトバンクでプレーしていた鶴岡慎也(野球日本代表ブルペン捕手)に、牧原へ代表入りの可能性があることそれとなく伝えられないかとお願いしていた。それぐらい彼の万能さは、対戦していても嫌だった。大変な思いをさせたが一生懸命やってくれた」

 「監督というのは、自分のやりたいことと、監督としてやるべきことが、いつもせめぎ合っている。自分の思いを走らせて良い時と、勝つための確率を上げなければいけない時とを考えている。

あの村上選手がサヨナラ打を打った準決勝の打席は1点差で、ノーアウト一、二塁。バントも考えられるので、バントの準備をしてとコーチに伝えていた。フォアボールの出し方などを見ながら、どっちの確率がいいかを考えていて、準備してなくてバントできなかったというのは避けたかった。

あのケースはいろんな考え方がある中で、最終的には、ムネで勝負だと思った。そういう感じ。やっぱり、もし勝ちきるなら物語が必要というか、こういう形が出てこないと優勝しきれないというイメージが僕の中にはある。僕はムネと心中しようと思っていた」

第5回WBCで優勝を果たし、トロフィーを手に選手とともに写真に納まる栗山監督(中央)=3月21日、米マイアミ(共同)

第5回WBCで優勝を果たし、トロフィーを手に選手とともに写真に納まる栗山監督(中央)

 ――大会期間中、捕手を3人招集し、甲斐拓也捕手と中村悠平捕手を交互で先発させた。
彼らへの評価と、どんなこと期待して起用したのか。

 「絶対的な守りとして甲斐の安心感。攻撃も守りもバランスいいのが中村。攻撃に移った時は大城卓三選手という3パターンを用意した。結果的に大城の出場は少なくなったが、3人いることで、思い切って代打出せるし動ける。投手が投げやすい、感覚的なものも話しながら、バランス良く起用していった」
 「メキシコや米国選手の攻撃力を考えると、日本が0点で逃げ切るのは難しい。結果的に決勝は2失点だったが、チームに攻撃力持たせたいということで、中村から起用した。ここ数年の日本シリーズで、キャッチャーとして一気に成長しており、いろんな幅を感じる選手だ。どういう特長を生かすかが最終的な判断となった。
 日本に帰ってきてから、中村が(大谷選手との)サインの確認をマウンド上でしたという話をしていたが、あのレベルの選手なら、何とかやってくれると信じていた。毎回投手を代えるし、翔平も打席が回ってくるし、大変だったと思う。捕手を替えることに怖さを感じる試合だった。あの3人がバランスよくやってくれたことが、今回世界一につながったことは間違いない。感謝している」
 ――WBCでの指揮を終えて、次回以降の大会が良くなるため、どこを変えた方が良いか。
 「それはNPB(日本プロ野球機構)にきちんと報告しておく。ダルビッシュ投手の場合、普通の調整で考えると、あの球数で試合に出すことはありえない。強化試合に出られずに、いきなり韓国戦をやってくれた。本人にも謝ったが、調子が上がらなかったことは間違いない。
 そういうことがあるとメジャーリーガーが参加しにくい。そのことは徹底的に大リーグにお願いする。ファンに伝えるべきでないこと、裏でやらなきゃいけないことはいっぱいある。選手が出場しやすいようにしていきたい。このままだとメジャーリーガーが出場しにくくなるだけだ」
 ――台湾の野球ファンも、監督の采配に感嘆している。台湾や韓国でも野球をもっと好きになってもらえるため日本が優勝して良かったと言っていた。将来、台湾で野球の伝道師になってもらえないか。
 「台湾には、王柏融(ワン・ボーロン)選手を日本ハムが獲得するときに訪れた。あの時は大谷が米国に行くのと同じぐらい、国民のみなさんが期待していて、その熱さも感じた。アジアの文化の中で、野球が合っていると思う。台湾や韓国、みんなで手を取り合って、発展していけるよう僕も頑張りたい」
 ――監督が残した功績は歴史として語り継がれる。そうした手腕を持つ監督として世の中の管理職が、新入社員である今どきの若者と向き合う際にハートをがっちりつかむコツは。
 「僕もその答えが分かったらすごく幸せだ。僕が思っているのは、僕らも若い頃、『今どきの若者は』と言われたし、多分江戸時代も同じように言われていたと思う。環境も考え方も違うが、誠心誠意、自分が思っていることを相手に正面からぶつける作業ができれば、時間がかかっても伝わる。
 今の若者だから、というやり方はしていない。今回、ジャパンの選手に真っ正面から話してきた。選手としては面倒くさいと思うが、本当に正面からぶつかって話すことがある。その作業だけは、自分でしないいけないと思っている」
 ――日本ハムの監督時代、大谷選手の二刀流に気を使って走塁についてやかましく言っていた。今回、そういう心配はあったのか。
 「実はあまり言葉にはしていないが、決勝で塁に出た時には、走るなとサイン出していた。3ボール2ストライクでも、止めるケースはある。
 一緒にやっていて感じたのは、体の成長だ。5年前なら怖かったものが、体の強さは前進しているんだなと感じた。それでも、走らせてはいけない部分は丁寧にサインを出した。東京での予選では、いけるなら行っていいよ、とは言っていた。そこで盗塁が必要かという、彼の野球観は信頼している。投手は指を痛めたら投げれないので、何年たっても心配ではある」
 「今回、翔平が出場する経緯は、まあ、何というか。出る出ないではなくて、感覚でわかるというか。言葉では言いづらいが、そういう感じ。昨年8月に渡米した際にも、翔平とは出る出ないの話はしていない。自分の中では出てくれるという感覚はあった。大事なことを、2人とも言葉にしないんですよ。どういう方向性で彼が考えているか、感じ取っているつもりだからだ」
 ――選手、監督ともに注目されているが、このフィーバーぶり、どう受け止めているか。
 「日本に帰ってきて、これだけ多くの人が、野球を見て、興味を持ってくださった。本当に感謝しかない。1人でも2人でも野球をやってくれる子がいるかもしれないという、うれしさとして捉えている」
 ――監督は退任するが、野球界に携わる中で何を軸にやってみたいか。
 「自分が留まってはいけない。やらなければいけないことに向かって、やっていかないと思っている。その一つは、僕が元々教員志望だったので、子どもに対してできることはやらなきゃいけないと思っている」
 ――北海道にゆかりのある選手が活躍し、道民も励みになったと思うが、励ましの言葉を一言。北海道のために、やろうという考えはあるか。
 「(北海道の)栗山町に住んでいるが、栗山高校も生徒が少ない。学校存続のために、女子野球チームをつくる活動もしているが、子どもたちに、何か僕ができることがあれば、手伝いたいと思う。
 日本ハムが北海道に来て、道内の野球環境が変わったことは間違いない。いろいろな地域に才能を持った日本の子どもたちがいっぱいいる。持っている能力生かすため、何かできることあれば、少しでも恩返しできるようにやっていく」
 ――決勝のアメリカ戦の前に大谷選手が『憧れるのはやめよう』と言っていた。逆に日本の選手に対して、憧れを持ってグラウンドに立ってるのではないかと思うことはあったか。
 「憧れを持ってというのはなかったが、日本文化や礼儀正しさ、相手をきちんと認めるという部分は感じた。ヌートバー選手を代表に呼ぶ時は正直すごく迷った。米国で育ち、プレーした選手が日本のチームに入るのが良いのかと。それでもチームをグローバル化したいと思い、参加してもらった。対戦相手からは『お前らいいよな、こんな環境で野球がやれて』というものは感じた」
 ――決勝戦での投手起用について。八回ダルビッシュ、九回大谷というのは去年から考えていたと言うが、実行しようと考えたのはいつか。普段、リリーフ経験の少ない2人が緊迫した場面でマウンド上がったが、不安や迷いはなかったか。
 「最後どのように終わりたいかを考えた時、最初に浮かぶのはあの二人だ。そこに向かってまっすぐ走るだけ。いろいろ考えたが、最初からイメージを持ってたのは事実だ。
 決勝戦で若い投手をどんどん突っ込んだが、足が震え、僕の話を全然覚えていないほど選手は緊張していた。後ろほどプレッシャーかかる。最後はあの二人しか乗り越えられないかなと感じた。そこまでが僕の仕事だと思った。あの二人をマウンドに上げて、やられたら納得できるし、彼らがやられるならしょうがない、じゃないが、そこまで僕は信頼している。不安もまったくなし」
 「翔平に関しては先発しかやってない時に(クライマックスシリーズの)抑えで使った経緯がある。ダルは2009年のWBCで最後をやってるし、出る出ないが全然決まってない時から、どのポジションならやってくれるんだという話をしている。もし行くならば、どこでもやりますという雰囲気で言ってくれていた。日本のためにやりますと言ってくれた」
 ――今後、教授として教鞭を執る意欲はあるか。
 「僕の話はあまり聞きたいと思わないと思う。ただ、僕もテスト生からプロに入って、全然だめだった。僕が話すことで何かを感じてもらえるならやりたい」
 ――選手がものすごく緊張する中、監督自身は緊張しなかったのか。どうやって自分の気持ちをコントロールしたのか。
 「もしかしたら緊張しているかもと思ったのは2戦目の韓国戦。試合前、珍しく体がふわふわした感じだった。これがプレッシャーなのかなと思った。あの日、岸田(文雄)首相の始球式があり、エラーしたらまずいと思っていたら、そういうのも消えた。
 他人が緊張しているのを何とかしようと思うと、こちらが冷静になる。緊張していたかもしれないが、比較的、頭の中は冷静でいられたと思う」
 ――これからのWBCをどう良くしていくか。組み合わせが不透明だとか、日程の決め方など、課題はあるが、どう変えてほしいか。
 「ルールを最初から決めておかないといけない。進みながら変わることがいっぱいあった。準決勝の相手は米国だと思っていた。何年もかけてイメージをつくっている。途中で変わるのはいくら大リーグの主催でも違うと思う。ルールをまず決めてほしい」
 ――サイン帳への揮毫(きごう)について。
「感謝」「夢は正夢」と記した直筆サインを手に、WBCを振り返る栗山英樹監督(玉田順一撮影)

「感謝」「夢は正夢」と記した直筆サインを手に、WBCを振り返る栗山英樹監督(玉田順一撮影)

 「僕が書かせてもらうのはおこがましいが、『感謝』と『夢は正夢』と、ずっと大切にしてきた言葉を書かせてもらった。
 あんなに追い込まれて野球を一生懸命考えるというのは、人生でこれ以上幸せな瞬間はない、と思いながら闘った瞬間も実はあった。本当に野球に感謝しいるし、皆さんのおかげで多くの方に野球の面白さ伝えてもらった。また、今回のジャパンのような選手が、子供たちの中から生まれてくると信じている。
 こんないい経験させてもらったので、野球のために、これからは恩返しできるようにしたい。スポーツ含めて、人が頑張る姿をぜひ伝えていってもらいたい」
(参考:北海道新聞電子版、JIJI.COM)

【スポンサーリンク】
ジゲンオールインワンフェイスジェル

コメント

タイトルとURLをコピーしました