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パリオリンピックの陸上・女子やり投げで金メダルを獲得した北口榛花選手。実は本格的に陸上を始めるまでは、競泳やバドミントンに取り組んでいました。
また、2022年冬の北京オリンピック・スノーボードの金メダリスト、平野歩夢選手は、3年前の東京オリンピックでは小さいころから親しんできたスケートボードで出場を果たし、“二刀流”として大きな注目を集めました。
こうした主に子どものころに複数のスポーツに取り組むことは『マルチスポーツ』と呼ばれ、夏までは野球、秋からはアメリカンフットボールなどシーズンごとに競技を変えるアメリカなどでは、すでに当たり前のものとなっています。
この『マルチスポーツ』を日本でも推進していこうという動きが、今、広がりを見せています。子どもたちがスポーツに取り組む際の新たなスタンダートとなり得るか、最前線をリポートします。
実際にどう両立?競泳と野球の『マルチスポーツ』
『マルチスポーツ』を体現してきた選手がいると聞き、まず向かったのは競泳の強豪、中央大です。
話を伺ったのは水泳部に所属する1年生の光永翔音選手。光永選手は、競泳で全国高校総体で優勝するなど、バタフライや自由形の短距離で将来が期待される若手スイマーです。
その競泳と並行して行っていたのが野球。高校では3年生のときに4番・ファーストとして東東京大会でベストエイトまで勝ち進みました。
親のすすめで小さいころから複数の習い事を行っていたという光永選手。水泳に触れたのはまだ0歳の時、ベビープールに通ったのがきっかけでした。その後、小学2年生から選手コースに進んで、本格的に競泳を始めました。
一方の野球は、父親が野球をやっていた影響で、小学1年生の時に地元の少年野球チームに入りました。小中学生のときは平日に競泳、土日祝日は野球に主に取り組み、2つの競技で力をつけていきました。
「小さいころから野球と水泳をやっていて、自分のなかではそれが当たり前だった。片方に絞るという選択肢が高校に入るまではなかったし、やりたい気持ちがあるのなら、やった方がいいなと」
1つの分岐点を迎えたのが高校入学前
進学先を決める際には、野球と水泳双方の関係者から、「どちらかに絞って」と決断を迫られることもあったとのこと。
そんななか、光永選手は親に「両方やりたい」とみずからの希望を伝え、2つの部の掛け持ちが可能だったという東京の日大豊山高校を選びました。
それでも2つの部を両立することは大変な面もあったといいます。
大学からは、世界の舞台で戦うことを目指して競泳に専念した光永選手。
野球で下半身を鍛えてきた効果が、競泳でのターン後の壁の蹴りやドルフィンキックの強さなどに生かされるなど、さまざまなメリットを感じているといいます。
「一瞬の力の入れ具合やスピードが競泳に生かされていると感じる。僕の場合は1つをやり続けることの方が難しいと思っていて、野球をやって水泳をやって、違うことに取り組むと気持ちも切り替えられるし、使う筋肉も違う。“1つに絞っていたら”と思うこともあったが、2つやってきたからこそ得られた経験も多いので続けてきて良かったと思う」
スポーツ庁が推進に本腰
スポーツ庁は海外の事例を紹介するシンポジウムを開くなど新たな取り組みを開始。
スポーツ庁は『マルチスポーツ』のメリットとして、身体機能の向上やケガの防止などでの効果のほか、複数のコミュニティーに所属し、多様な指導者や仲間と出会うことで、社会性や協調性を育むことにつながるとしています。
運動面だけでなく人間形成において意義が大きいとして、“日本版マルチスポーツ”の普及・検討を進めています。
「1つのことに専念することも大事なことではあるが、子どものころからだとそれは早すぎる。保護者や指導者の中でも『1つのことに専念させないと、将来すばらしい選手になれない』と考えてしまう人もまだ根強くいると思うが決してそうではない。自分には何が向いているのか、さまざまな体験をしないと可能性を狭めてしまう。事例も含めて丁寧に説明して理解していただけるように進めていきたい」
新たな体験イベントも
スポーツ庁は11月、子どもたちに複数のスポーツに気軽に触れてもらおうと、筑波大学と協力して新たなイベントを開きました。
大学生が指導役となって、サッカーやバスケットボール、柔道など9つのスポーツを順番に体験してもらいます。
なかには弓道などふだんは経験するのも難しい競技もありました。
未就学児から中学生までおよそ350人が参加し、子どもたちは「柔道はやったことがなかったけど、技が決まると気持ちよかったです」とか「体操はあまりやったことなかったので楽しかった」などと、さまざまなスポーツのおもしろさをじかに感じていました。
2人の子どもがスポーツをしているという保護者も「1つのスポーツを頑張ることもいいと思うが、スポーツはさまざまだと思うので、いろいろなものを小さいころから経験できるのはいいかなと思う」と『マルチスポーツ』への理解を深めていました。
トップ選手も 柔道・村尾選手が経験語る
イベントにはトップアスリートも登場しました。
柔道のパリオリンピックの銀メダリスト、村尾三四郎選手です。
村尾選手は小学生のころ、柔道以外にラグビーや相撲、水泳、器械体操などにも取り組んだ『マルチスポーツ』の経験者だと明かしました。
「いろいろな選択肢を与えたい」という父親の教育方針で、さまざまなスポーツや武道を習っていたということです。
中学生からはオリンピック出場を目指して柔道1本となりましたが、小さいころに複数の競技を行っていたことが今の柔道のスタイルにも生かされているといいます。
「技の速さが自分の持ち味の柔道スタイルだと思っていて、そこは柔道だけやっていたら出ていないと思う。また、体操をやっていたことで空中や片足でのバランス感覚を養えたし、相撲で柔道では使わない筋肉も鍛えられた。今の柔道にすべての競技が生きている」
そして何より村尾選手が大きかったというのが、さまざまな考え方や交流を得られたこと。
多くの友達と出会うことができ、チームメートや指導者から多様な考え方を吸収できたことがいちばん大きい影響だったと伝えました。
「小さい時にずっと1つの競技だけをやっていると、考え方が凝り固まってしまうと思う。いろいろな競技の楽しさを知ることができたこともそうだし、いろいろなコミュニティーで友達が増えたこともそう。利点が多かったので、『マルチスポーツ』の可能性は大きいと思う」
“本末転倒”にならないために
『マルチスポーツ』の推進が進められるなか、専門家は課題も指摘します。
『マルチスポーツ』に詳しい筑波大学の大山高教授によりますと、さまざまなスポーツの道具を用意したり、複数のクラブチームに入るための費用がかかったりする問題があると指摘するほか、最も重要な課題は「スポーツをやりすぎてしまうこと」だといいます。
「複数のスポーツをやりすぎて疲弊してけがをして、心も折れてでは本末転倒になってしまう。極端にならないということが『マルチスポーツ』では大事だ。バランスを親も意識したうえで『マルチスポーツ』の環境を作っていくことが重要だ」
マルチスポーツを子どもの成長に
日本でも広がり始めている『マルチスポーツ』。
少子化が進むなかでスポーツ人口の維持や、競技力向上という面でも期待されますが、その本質は「子どもにさまざまな経験をしてもらって人間的な成長を促す」ことにあると感じます。
柔道の村尾選手も「子どもの可能性は大人が思っている以上に広いと思うので、選択肢を与えてあげることはすごくいいことだと思う」と期待を寄せています。
多くの経験をするということはスポーツだけに限った話ではありません。
野球とピアノを両立する、バスケットを習いながら科学教室にも通う。文化や芸術、学問や自然の中での体験など、子どもの興味や関心はさまざまなところに眠っています。
そうした多様な経験を積んでいくという考え方が日本のスポーツの世界でも当たり前となっていけば、子どもたちの可能性もどんどん広がっていくかもしれません。
(参考:NHK12月2日 ニュースウオッチ9で放送)
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