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私は何年か前に、北海道最南端のM町に住んでいました。
そこでよく飲みに行っていたスナック「K」のママの話がとても面白くて文章にしたものです。何回か投稿します。お付き合いください。
不定期的になると思いますが、約10回くらいでご紹介していきますので、しばらくお付き合いください。題して『トトロママの十客十色』
『トトロママの十客十色』(1)
1 トトロママ
「そうねえ、この商売をしているといろんなお客さんが見えるわねえ。」
トトロママはグラスの水滴を拭きながら語り始めた。
ここは北海道最南端のM町。そこに「K」という店を出してし年目になるという。カウンターに椅子が十二脚、ボックスには十人が座れる造りになっている。補助のスツールを使えば二十五人は座れる。夏の宵にはまだ早い時間で、他に客もいないことからトトロママは時間つぶしに語り始めた。
先に「トトロママ」のいわれを説明しておこう。決して体型がトトロに似ているからというのではない。彼女には一人の息子と二人の娘がいて、ある日子どもの言葉にママが横目で睨んだ時、その表情がトトロに似ているということで、その後何かと「トトロ」という名称が使われるようになったという。名前とは違ってママは美人である。ぽっちゃりとして「かわいい」という表現が合っていると私は思う。
ある時、この町の町長と飲んだことがある。
「我々が若い頃、M町には七人の伝説的な美人がいてね、ここのママもその一人だったんだよ」
と懐かしそうに話していた。町長の表現にママはすかさず切り込んできた。
「だった、ということは今は違うと言うことですね」
議会の答弁ではないが、町長は少しあわてて
「いや、今でも美人だよ」
と照れながら弁解する。ママはそこの呼吸はよく解っているので、にっこり笑ってそれ以上は追求しない。賢い女性である。
この町長についてはまた後述するつもりなので、もう少しママについて説明しておこう。トトロママはこのM町の生まれで、高校卒業までこの町にいた。卒業後H市の専門学校に通い、二十歳で結婚をした。何年か後にこの町に戻り、「A]という居酒屋を開いた。「A」はこの「K」の隣にある店で、今は知人に貸している。
「A」は当時まだバブルのはじける前で、かなり繁盛していたそうだ。従業員を二人使っていてもかなり忙しかったらしい。具体的な話をすれば年間の収入が三千万を超えた年もあったという。当時は帯のついた一万円の札束を腹巻きにいくつも挟んだ漁師が、溜まっていたツケを払いに来ていたという。一本何万円もする酒やウイスキーをはばかることなく注文していたそうだ。
しかし、バブルもはじけ、事情はいろいろあったろうが、とにかくトトロママは店を貸して札幌に出た。そのあたりの事情は、ここの本題ではないので私も詳しくは聞かない。ともかくトトロママは再びM町に戻って「K」を始めたのである。ここではトトロママがM町で出会った客について居酒屋「A」とスナック「K」でのママの話を紹介する。
*** *** *** *** ***
2 「候」文の米兵
M町は二十年ほど前まで米軍のレーダー基地があり、かなりの米兵が住んでいた。そのせいでトトロママの「A」にもよくその人たちが「常連」としてやってきていた。日によっては、カウンターの一列が米兵だけで満席になった時もある。
ある日開店後間もなくそんなになじみでない米兵が客としてやってきた。名前をBとしておこう。B氏は多分トトロママの人間的な魅力に惹きつけられたに違いない。トトロママとじっくり話をしたいと思い、その日の看板の時間までカウンターの隅に座り続けた。
当然ママは彼の近くに来た時には片言の英語で話し、B氏も時折ママの英語より怪しげな日本語を交えて話す。
「アナタ、コノマチノドコガスキデスカ」
「ワタシ、ママガスキデス」
「ノー、ソンナコトデナクテ、バショ、ドコガスキデスカ」
「コノミセガスキデス」
「チガウ、ミセデナク、カンコウスルバショノコト」
「カンコウ、バショワカリマセン」
というような会話が交わされたかどうかは判らないが、これに似たものだろう。聞けばB氏は間もなく本国に帰るという。帰る前に日本女性を代表するトトロママと話をしたい、そしてできればママとデートできたらと思っていた。もちろん独身である。
B氏は次の日も開店から看板まで同じカウンターに座って時折話し、飲み続けた。そんな日がちょうど一週間続いた。トトロママはついに根負けしてその日の夜、彼に伝えた。
「ワカッタ、ワタシアナタヲアンナイスル、コノマチヲ、アシタニチヨウビ。オーケイ?」
もちろん、B氏に依存はない。翌日トトロママは町の否、日本女性を代表してB氏の観光ガイドを買って出たのである。
M町は北海道でも最初に開かれた町である。その分歴史も古く旧跡も数多い。中でも寺院の数は比類のないほどである。その中心部あたりを「寺町」という。それでも戊申戦争でかなりの数が焼かれている。これについても秘話がいくつかあるが、別の紙面にゆずる。
トトロママは前日も遅くまで営業していたにもかかわらず、日本を代表しての役割である。というような大げさな考えはママにはなかったかもしれないが、できる限り誠実にB氏を案内した。
「コノオハカハ、Mハンノハンシュノ、ツマリトノサマノハカデス。ニホンノオハカトハツクリカタガチガイマス」
「ツクリカタガチガウ?。イシヲケズルノデハナク、コンクリートデツクッタノデスカ?」「ノー、イシデツクッテル。バット、イエノカタチノナカニオハカアル。ニホンジンノオハカ、イエ、ナイ」
トトロママはその日の夕暮れまでB氏を案内した。B氏は大いに感激し、夕食をごちそうし、日本女性のすばらしさに感動したのである。
それから間もなくB氏は本国に帰っていった。そしてほどなくB氏から手紙が届いた。かなり分厚い封書であった。開封すると巻紙に黒々とした墨で書かれた手紙だったのである。もちろんB氏は友人の日本人に頼んで書いてもらったのである。ただ、頼まれた友人は明治生まれの日本人だったのである。
「(略)御地にての最大のよき想ひ出はM町をご案内いただきし貴殿の心遣ひに御座候、我が輩いたく心動かされ候間、貴殿を我が國に招聘いたしたきにて候。つひてはご家族一同にて亜米利加国へ来ていただきたく願ひ候、すなはち我が輩は貴殿と夫婦の縁を結びたく候ゆへ是非・・・(略)」
というような内容だった。トトロママは驚いた。と同時に心を揺さぶられた。現代の日本人が使うはずもない古いかな遣いの候文ゆえに、なおさらその思いが伝わった思いである。今の生活を捨ててアメリカに飛んで行こうかと。しかし、一度結婚生活に失敗していること、子どもたちの行く末を考えると不安もある。かろうじてママは思い留まった。
「今でもその手紙は大事にとってありますよ。」
そういうとトトロママはグラスに残ったビールを一気に飲みほした。
(続く)
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