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私は何年か前に、北海道最南端のM町に住んでいました。
そこでよく飲みに行っていたスナック「K」のママの話がとても面白くて文章にしたものです。何回か投稿します。お付き合いください。
トトロママの十客十色(4)
5 グラスを食べた男
「これもおかしかったわ」
トトロママは話し始める前から笑っていた。
「店では時々お客さん同士喧嘩をすることがあるの」
「そんな時は大変だね」
ジョッキから一口飲んだ私はママのいかにもおかしそうな顔を見つめながら言った。真っ赤なシャツに白い歯がこぼれる。きれいな人だなと思う。
「そんな時は私も負けてないわ。何よあんた達、喧嘩するなら表でやってよね、他のお客さんが迷惑よ、って」
「それで、素直に表に出るの?」
「それが出るのよね、不思議と」
喧嘩していても、冷静さをどこかに持っていて、そうだなと思うのか。それともトトロママから出入り禁止を喰らうのが怖いから、ふ
と冷静さを蘇らせるのか。
「でもね、3分もしないうちに戻って来るのよ」
3分といえば、ボクシングのワンラウンドの時間だ。どちらかが一方的に強いから簡単に決着がつくのか。私は飲むのを忘れて話を聞きながら尋ねた。
「さあ、どうかわからないわ。でも店に入って来るときは肩を組んで来るのよ。そして二人で乾杯する訳よ。さっきまでの勢いは一体何だったのと言いたくなるくらい。」
「でも怪我人が出たら困るからそれでいいじゃないの。」
「そうね、店のものが壊れたり、他のお客さんに迷惑かけるのでもないからいいんだけど。ホント酔っぱらいの喧嘩って、無邪気な子どもの喧嘩みたい。次の瞬間はもう親友みたいに一緒に飲んでるのよ。」
とトトロママの口元から再び白い歯がこぼれる。
切った、張ったの世界に比べるとかわいい世界ではあろう。しかし、毎日そんな心配をしなければならないとしたら、よほど肝が据わっていなければこの仕事は続かないだろう。話を聞きながら、今更ながらにトトロママの強さを思う。まさに百戦練磨の人だ。
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「でも、本当に怖い喧嘩っていうのもあったでしょう」
厚焼き卵をほぐして、口に放り込むと、私はそう水を向けた。おそらく、ママの手にも負えず、警察沙汰になったような事件もあるのではないかと思ったからだ。卵の豊かな味が口の中から鼻まで広がる。
「怖いというのとはちょっと違うけど、こんな話もあったわ。よくしゃべる男の客がいたの。俺には怖いものなどない、矢でも鉄砲でも持ってこい、みたいに大声でわめいてるわけ。」
普段おとなしい分、アルコールが入ると人が変わったようにがなり立てる虎になるのは時々いる。ところがそのことを覚えているのかどうか、次の日はまたいつもの自信なさそうなおとなしい猫に戻る。
「ところが、その男から三つほど置いた椅子に強面のおにいさんがいたのよ。静かに飲む人だったわ。一見してその世界の人かと思うような。そのお客さんがドスのきいた声で静かに言ったのよ。おい、いい加減に静かにしないかってね。そしたらどうなったと思う?」
「当然、虎は牙をむいてそのお客さんに向かう訳でしょう?」
ジョッキを置いて、私は次の卵焼きに持って行った箸を止めて答えた。
「ちがうの、突然、固まっちゃって、言葉が出ないのよ。あんたの話に他の人は迷惑をしてるんだ。そしたら、その虎男は、はい、すみませんって言って目の前にあった自分のグラスをかじり始めたのよお。」
トトロママは「よお」の部分を少し伸ばして間を置いた。
「グラスってこのグラスをかい?」
「そうなの、ガチって音がしたわ」
ママは少し顔をゆがめて痛そうに言った。
「強面のお兄さんの視線を感じたまま、その人バリバリかじって、終いには底の部分までかじっちゃったのよ」
「へー、それじゃあ、唇を切ったでしょう」
「そうなの、唇から血を流してるの。それで慌てて私はティッシュを何枚かあげたんだけど、その人ティッシュを取ると、店を飛び出して行っちゃったのよ。」
多分、後に残ったお客さんたちは一部始終に大笑いだったろう。
「可笑しいやら、気の毒やらで・・・」
ひとしきり笑った後で、私はビールを一口飲むと尋ねた。
「それで、何か後日談はあるの」
「次の日ね、店の掃除にきたCちゃんが、椅子の下に落ちているグラスの破片を見つけて、ママ、誰かグラスを割ったのって聞くのよ。それでそのいきさつを話したらそこで大笑い。」
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そのあとCちゃんは、真顔に戻ってトトロママに尋ねた。
「でも、かじるのが何でグラスなの?」
トトロママが何と答えたかは聞き漏らした。
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