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私は何年か前に、北海道最南端のM町に住んでいました。
そこでよく飲みに行っていたスナック「K」のママの話がとても面白くて文章にしたものです。何回か投稿します。お付き合いください。
トトロママの十客十色(7)
7 無銭飲食
「何よ、文句があるなら、警察を呼びましょうか。あんたのことは私の頭にちゃんと記録してんだからね。」
珍しくトトロママの怒った声が店に響いた。仲間内で語り合っていた私たちは一瞬言葉を失う。カウンターの一番奥に座っていた男にママが言葉を浴びせている。
「何だとこの野郎」
男はママに負けずと大きな声を張り上げる。しかし、私たちの手前ママに手を出す心配はないようだ。私たちは静観していた。
だが女性に向かって「野郎」という言い方は正しくないな、私は余裕からかそんなことを考えていた。
トトロママはカウンターの中。もし男がママに手を出そうとしたら、私たちが止めに入ることができる距離である。ビールを飲みながら私はそう計算していた。
「今飲んだ分は払わなくていいから、帰ってください」
男は何か言いたそうであったが、分が悪いと見えてしぶしぶ帰っていった。それでもジョッキ一杯をタダで飲んだことになる。
訳を聞くと前の店「A]にかなり溜め込んでいたツケを払わず、踏み倒したとのこと。ここで飲むなら前の分も払ってからにして、というようなことになったらしい。
男は「A」とは違う店だからと、入って来たのだろう。だがママの顔を見て、一瞬しまったと思ったが、まさか覚えてはいまいと踏んだのかも知れない。
トトロママを見ていると、この道の人の記憶力はすごいと思う。ママは時折り、瞬時に名前が出てこないことはあるらしいが、顔はよく覚えているという。
だから何年も前に一度だけ来た客でも初めての客ではないことが分かるらしい。そして話をしている間に名前も思い出すという。私なんぞは、落語のネタになるくらい顔も名前も忘れてしまうので、この商売には向かないことがよく分かる。
「無銭飲食の客は経験したことはあるの?」
私はいつもの好奇心で尋ねた。
「それが初めてあったのよ、ついこの間」
その男は初顔だった。十二時を過ぎたころに一人でやって来て、ずっとカウンターで飲んでいた。
看板の二時にはまだ間があったが、その夜は少し暇だったし、そろそろ店じまいをしようと思って片付け始め、男にもそのことを伝えた。
「俺が気持ちよく飲んでいるのに何だ、その客を無視した態度は」
男はなかなか帰ろうとはしない。トトロママはもう少し待つことにした。そのうち誰か入って来るかも知れない。しかし、外は白いものが地面を覆い、師走の風が少し強くなってきた気配だ。そんな時は時間が経つのが遅い。客がカラオケでもやってくれれば場が持つのに。自分だけ歌うのも気が進まないし。
やっぱり帰ろう、ママはそう決心した。
「お客さん、もう看板の時間です、帰っていただけませんか。」
トトロママは少し強く言う。だが男は何だかんだとケチをつける。この時トトロママは商売上の勘から男が金を持ってないことを察した。
このまま事を荒立てずに済ましてあげようとママは二つ目の決心をした。
「飲み代は要りませんから、もう帰ってください」
「何だ、それは俺を馬鹿にしてるのか」
「そんなことはありませんが、もう、店を閉める時間なんです。お願いですから帰ってください」
「うるさい、客に向かって無礼だぞ」
と言ったかどうかは不明だが、結局警察を呼ぶことになった。
「終わったのが3時過ぎなの、疲れちゃったわあ。」
「で、男は金を持ってなかったのかい」
「そうなの、友達の所に来たのだけど、道が分からなくなったのね、それでたまたまうちの店に入ったという訳なの。」
「へえ、それで男はどうなったの」
「一晩留置場に入れられて、翌日友達の名前を思い出して、その人に迎えに来てもらったらしいわ。」
「しばらくぶりにその友達に会いにきたのだろうか」
「そうでもないらしいのだけど、飲んだら訳がわからなくなるから、友達も飲んだらダメだと言ってたそうなのよ。」
「ふーん、師走にありがちな、寂しい話だね」
「でも面白いこともあったのよ」
根が明るいママは、どんなときにも楽しむことを忘れない。
「警察署から帰るときにさ、パトカーで送りますか、って聞かれたから、私いやだって言ったの。そしたらさあ、真っ赤なポルシェに乗っているあの人の車で送ってもらうことになったのよ」
真っ赤なポルシェに乗る警察官は時折この店でも話題に上ることがあった。だからあの人なのである。
この話は警察署長のFさんにも伝えられた。
「はっはっは、滅多に乗れないポルシェに乗った感想はどうだった」
署長は例の豪快な笑い方でママに尋ねた。
「どうもこうもないわよ、私疲れてしまって感想も何もないわ。」
トトロママはどういう訳か照れるように、グラスを持ってビールのサーバーの前に移動した。
赤いポルシェに乗ったお巡りさんは独身男性。生活費のほとんどを車にかけていると言う。
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