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オリンピック・パリ大会では金メダルが期待されています。そんな代表の中で、とわの森高校出身の山本智大選手は苦労の末勝ち取ったリベロの座を死守しての活躍に応援の声が上がります。
バレーボール男子リベロ山本智大、耐えてパリ代表 仕事と並行の日々
パリ五輪に臨む男子日本代表で、東京五輪に続き唯一のリベロとして代表を勝ち取った山本智大(大阪ブルテオン、とわの森高出)は数々の困難に直面してきた。社会人1年目にはガス検針の仕事を経験、競技に打ち込めない日々を過ごした。
今回の代表選考では交流サイト(SNS)で批判を受けた。くじけそうになっても、座右の銘を胸に乗り越えてきた。「過去より今」と心に刻んで。
日体大を卒業して迎えた2017年シーズン、当時プレミアリーグのFC東京では母体のガス会社で仕事と競技を並行する日々だった。「お客さんの家にガス点検に行ったり警報器を取り付けたり。その後に練習ということもあった」
リベロは他の選手と判別できるように色の違うユニホームを着用するが、当時はリベロの2番手。「僕は普通のユニホームで、後衛でディフェンスをして。初めて挫折というか、バレーボールが楽しくないなと思った」。体重も減らし、悶々(もんもん)としていた。
ただ、「自主練習を怠らずに毎日やった。腐らずに耐えた」。17年のユニバーシアードで銅メダル。翌年にV1の堺に移籍し、19年から日本代表に定着した。
同年のワールドカップ初戦のイタリア戦は今でも覚えている。「世界のトップ相手にたくさんボールを拾えた。俺、できるじゃん」。レシーブが通用して自信が芽生え、性格も明るくなった。
東京五輪は準々決勝敗退。パリ五輪の代表を目指す途上でライバルになったのが同じリベロの小川智大(日本協会)だ。フィリップ・ブラン監督はリベロを1人しか置かない方針をあらかじめ伝えていたため、熾烈(しれつ)な争いとなった。
「SNSで山本派か小川派か、そういう争いを見てしまった」と山本。選考争いの重圧とともにストレスも抱え込んだ。
母・伸子さん(54)は6月下旬、フィリピンで行われたネーションズリーグ(NL)1次リーグを終え、パリ五輪代表に決まった後に山本から電話を受けた。「本人から『ここ2カ月間、本当にきつかった』という言葉を聞いて。私が想像しても、しきれない思いで戦っていたんだと。今まで耐えてやってきたことが報われた気がした」。胸中をおもんぱかった。
その後、日本代表はNLで過去最高の2位に。山本はベストリベロを受賞した。大切にする「過去は戻って来ない。今が大切」との思いを忘れずにプレーした結果でもあった。
金メダルを獲得した1972年ミュンヘン大会以来のメダル獲得へ期待が高まる中、パリ大会を脂が乗り切る29歳で迎える。「東京(五輪)で負けてから、何としてでもメダルを獲得するとの思いはずっと変わらない。東京の時より、かなり自信がある」。
初戦は開幕翌日の27日、1次リーグ・ドイツ戦。守護神として最後まで諦めずにボールを拾い、仲間につなげていく。
(参考:北海道新聞 2024オリンピック特集)
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