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なまらあちこち北海道|俳優高橋恵子さん、新国立劇場の「デカローグ」に出演

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標茶町出身の高橋恵子さん、高校時代は小樽で過ごしたそうですが、そんな北海道出身の彼女が務める舞台について取材レポートです。

俳優高橋惠子さん「何を感じるのか楽しみ」 新国立劇場の話題作出演

名作「デカローグ」に出演する高橋惠子さん=インタビューはすべて玉田順一撮影

名作「デカローグ」に出演する高橋惠子さん

 たかはし・けいこ
 1955年生まれ。12歳から北海道を離れ東京で育つ。1970年、映画「高校生ブルース」で主演を務め、デビュー。映画「おさな妻」でゴールデンアロー賞新人賞を受賞し、その後も受賞多数。ドラマ「太陽にほえろ!」「金曜日の妻たちへⅡ 男たちよ、元気かい?」や舞台、CMなど幅広く活躍し、2021年には「HOPE」でミュージカル初主演。1982年に映画監督の高橋伴明さんと結婚、1男1女がいる。

大先輩から言われたこと

 ――「デカローグ」に出演を決めた理由は何でしょう。
 「内容に興味がありましたし、小川絵梨子さん(新国立劇場演劇芸術監督)の演出ということで、ぜひ出演させていただきたいと思いました。小川さん演出の舞台はこれで3本目。いつも衝撃を受け、自身の細胞まで活性化してもらえるような演出家です。
 今回は『気持ちで芝居をしない』ということを教えてもらい、衝撃を受けました。実は同じようなことを、かつて大先輩の女優・杉村春子さんに言われたことがあるのですが、当時はいまひとつわからなかった。しかし、今回の小川さんの演出で、人は『悲しい気持ちになろう、ここでうれしくなる』と思って動いているわけではないと実感したのです。
 このような気づきをもたらしていただき、本当に幸せなことだと思っています。わたしは年齢というものを気にしません。『デカローグ』でおいっ子のパベウを演じる子役の石井舜君も1人の俳優として見ていますし、教わることがたくさんあります」
 「デカローグ」
 ポーランドの名匠キェシロフスキによる連作ドラマ。旧約聖書の十戒をモチーフに、ワルシャワの巨大アパートに暮らす人々の人生模様を全10話で描く。テレビ放映用に撮影されたが、放映前に5話と6話を劇場用映画に編集し「殺人に関する短いフィルム」「愛に関する短いフィルム」として発表。前者は1988年のカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞するなど高い評価を受けた。テレビシリーズも世界で劇場公開。新国立劇場による舞台版は同劇場の小川絵梨子演劇芸術監督と、上村聡史さんが5話ずつ演出を担当。
「デカローグ」の魅力を語る高橋さん

「デカローグ」の魅力を語る高橋さん

 ――作品の魅力や見どころを教えてください。
 「私が出演する1話は、台本を読んだあとに時が止まってしまったような感覚になりました。喪失感や悲しみを描いていますが、そこに愛があるから悲しみがある。生きている中で、本当に大事にしたいものは何か、ということが伝わる内容だと思います。
 1話ごとが独立した話ですが、全話を通じて感じ取るものがあると思う。ですから私自身も10話まで見て、何を感じるのかということが楽しみです」

 ――高橋さんが演じるイレナはどんな役なのですか。
 「イレナはノゾエ征爾さんが演じる大学教授クシシュトフの姉にあたります。いろいろなことを計算し答えを出す弟とは対極にあるような女性で、目に見えないものも信じ、感じようとする愛情豊かな人。そこは共感できる部分です。
 台本の中に書いていないことをどう埋めていくかが難しいのですが、稽古を続けるごとに発見があり、自由に動けるようになっている手応えがあります」
 ――「デカローグ」はいよいよ4月13日に始まります。高橋さんは5月6日までのご出演ですね。
 「映像が原作ですが、新国立劇場の舞台はまた違うものがあり、今の日本の、この時代にとてもマッチした作品になっています。だからお客さまには舞台という空間で、実際に感じ取っていただきたい。北海道が育ててくれた高橋惠子の舞台姿を、一人でも多く故郷の方に見ていただきたいと願っています」
「デカローグ」の制作発表会見で意欲を話した高橋さん(前列左から2人目)=3月11日、新国立劇場(阿部章仁氏撮影)

「デカローグ」の制作発表会見で意欲を話した高橋さん(前列左から2人目)

 ――デビューは1970年。50年以上にわたり俳優の仕事を続けてきた原動力は何でしょう。
 「東京に来て中学2年の時にスカウトされたのですが、両親が大喜びで。父は若い頃は俳優になりたかったそうなのですが、福島出身で言葉のなまりがとれず断念した。母も宝塚歌劇が好きだった。2人とも私以上に喜んでくれて。その後も、だれからも女優をやめてほしいと言われなかった。ところてんのように押し出され、仕事に行って、という毎日で。
 そして、18歳か19歳のころ沖縄の鍾乳洞を訪れました。案内役の方から『この景観をつくる鍾乳石は100年で1センチほどしか成長せず、長い歳月をかけてこの形になった』と聞いたのです。不器用で人の何倍も時間がかかるタイプのわたしも同じだと思いました。これでできたと満足することがなかった。だから続けてこられたのだと思います」
 「私には兄がいましたが、私が3歳のときに病死した。だからこそ、結婚して、子供、孫という家族ができたことも、大きな支えになっています。家族ができてさまざまな人間関係を学ぶことができたことは、自分にとって大きいです。鍾乳石のような遅々たる歩みなので、生きている間に、自分なりにやったと思えるくらいまではやってみたいと思います」
 ――8歳まで過ごした標茶ではどんな少女でしたか。
 「私が生まれたのは熊牛原野番外地という場所で、まわりには民家など無いような場所。両親は開拓農家で酪農をしていました。小学校まで歩いて1時間かけて通い、冬はマイナス20度にもなる。手足の感覚がなくなったことを今も覚えている。自己主張はあまりしないけれど、しんが強い子供でした。
こうした環境で育ったことも(今の私に)影響しているのかもしれません。こうした場所で生まれ育ったことを作家の五木寛之さんがエッセーに書いてくださったことは良い思い出です」
 「来年(2025年)は私の故郷などを舞台にした映画『うさぎ追いし』(仮題、山本起也監督)のロケも始まります。実家の建物はもう無いのですが、サイロの土台の部分は残っているんです。故郷での撮影は初めてなので、こんな日が来るとはと感慨深いです」
 ――北海道での暮らしが、高橋さんに影響を与えたことは?
 「人間も自然の一部。そして自然をコントロールすることはできない、という実感を持ちました。標茶では家にカギをかけるようなこともなかったし、近所の人たちが牛のえさ作りを手伝ってくれるなど支え合っていた。だから、今も人は敵対するのではなく、協力していくものだという思いがあります」
半世紀の間には、さまざまな苦難もあった

半世紀の間には、さまざまな苦難もあった

 ――映像だけでなく、本作も含め話題の舞台作品に多数出演しています。
 「良い作品をつくることにこだわり、観客に喜んでもらえることを喜びに感じる人が多い。そういう場所はとても居心地が良いし、わたしもそうした作品づくりが好きなのだと思います。
 私は24歳のとき舞台を無断で降板し、失踪したことがありました。舞台に穴をあけたら戻るのは非常に難しい。それでも17年たったとき、演出家の蜷川幸雄さんが『もう時効だよ』と声を掛けてくれて『近松心中物語』で舞台に復帰することができた。42歳でした。
 近鉄劇場(大阪)の初日は心臓が飛び出してしまうかと思うくらいドキドキした。舞台に立つと客席から『高橋!』ってかけ声がかかったのです。もう、ありがたくて。これで大丈夫だと思えました。そしてあの事件で迷惑をかけた分を、演じることで返していかないと、と強く思いました。今も、きっと、まだ返し終えていませんね」
 舞台に立つ高橋さんの姿を早く見たいし、応援したいですね。
(参考:北海道新聞電子版)

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