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元タカラジェンヌが日高でサラブレッドを育てています。
■厳しい日々乗り越えたことが自信に
女性だけの華やかな舞台で人気の宝塚歌劇団。同歌劇団専属の舞台人として輝くタカラジェンヌですが、いつの日かそれぞれの決断で退団を迎えます。
道内では、トップ娘役として活躍後、縁もゆかりもなかった北海道に移住、「驚きの転身」をとげた日高管内日高町のサラブレッド生産牧場「ヴェルサイユファーム」の岩崎美由紀代表の奮闘を紹介します。
太平洋を望む東京ドーム7個分の広大な敷地に、約50頭のサラブレッドが暮らす生産牧場「ヴェルサイユファーム」。
近年は重賞レースに出走する有力馬を数多く輩出する注目の存在となっています。美由紀さんがこの牧場の代表になったのは2015年。「馬はきれいでかわいい動物」と、子供のころから大好きでしたが、牧場主になるとは夢にも思ってもいなかったそうです。
■入団3年目でトップ娘役
美由紀さんは1960年、兵庫県出身。幼いころからピアノ、琴、バレエ、日舞に打ち込んでいました。宝塚歌劇団に入団したのは、バレエの恩師から「あなたは舞台人に向いていると思う。宝塚音楽学校に挑戦してみたら」と勧められたため。宝塚音楽学校は2年制の団員養成所で、タカラジェンヌになるためには同校で学ぶことが必要です。
小学生時代から観劇していたとはいえ、受験までわずか半年でした。その上、1974年初演の「ベルサイユのばら」が大ヒットしたため入団希望者が急増、入学試験は高倍率となっていました。それでも声楽を猛特訓し、見事合格。「父はタカラジェンヌになることに強く反対していたのですが、合格するはずはないと思ったらしく、最終的に受験を許してくれたんです。そうしたらまさかの合格で…」と笑います。しかし、予想外の合格に父親も喜び、夢に向かって進む娘を応援するようになったそうです。
宝塚音楽学校での修練の後、1977年に63期生として宝塚歌劇団に入団した美由紀さん。娘役の「美雪花代(みゆき・はなよ)」としてデビューしました。芸名は宝塚歌劇団の元男役トップスターで、退団後は俳優として活躍する寿美花代さんがつけてくれたそうです。
美由紀さんは「自分が入団できたのは幸運だったからにすぎない。だからこそ精進を続けなくては」と地道な稽古を重ね、舞台人としての技量を磨きました。舞台上でひときわ目を引く天性の華やかさもあり、1979年に入団3年目という異例の早さで花組トップ娘役に就任、トップスターだった松あきらさんの相手役を務めることになりました。
喜びよりも、「なぜ私が…」とぼうぜんとしたという美由紀さん。トップ娘役としての日々は、あまりに必死だったため、記憶が薄らいでいるそう。ただ周囲からのプレッシャーの強さや孤独感は、時折思い出すことも。美由紀さんはその象徴的な出来事を話してくれました。
トップ娘役1作目の東京公演中のこと。美由紀さんが琴を奏でる場面で幕が開くのですが、決まった場所にしまっていたはずの琴の爪がこつぜんと消えていたのです。「前日まではあったのに…」。開演までの時間はもうわずか。都内に住む知人に電話し、「何でもいいから、琴の爪を急いで届けてください」と頼みました。
知人が息を切らして爪を届けてくれたのは開演15分前。何とか無事にやりとげましたが、爪が消えた真相は今も分かりません。「毎日、鏡に語りかけるような日々だった」という孤独な美由紀さんに相談できる人はいませんでした。
それでも今は、「万が一間に合わなかったらと思うとぞっとするし、本当に焦りましたね」と笑い話にできるようになったといいます。
トップに就任すれば、その後はほとんどのタカラジェンヌに退団という選択が待っています。美由紀さんもトップ娘役としてやりとげたという思いを持った時に、「次は新しい世界で挑戦しよう」と決意。1981年に退団しました。
その後は資生堂のCMへの出演を皮切りに、「遠山の金さん」などテレビドラマや舞台で活躍を続けますが、8年ほどたった時、結婚を機に芸能界を引退します。その後、一人息子の崇文さんが生まれ、主婦として東京や米国で暮らしましたが、離婚。転機になったのは16歳年上の札幌の実業家、小川義勝さんとの再婚でした。
競走馬牧場引き継ぐも…
小川さんと結ばれるきっかけは、馬。美由紀さんは馬が大好きで、宝塚歌劇団を退団したら乗馬を始めることが夢でした。しかし退団後に所属した芸能事務所では、けがの危険性から許してもらえず、引退後も妊娠や子育てのために習う機会を逸していたそうです。
「自分ができないなら息子に挑戦してもらいたい」と、小学生だった崇文さんに乗馬を勧めたそう。崇文さんも才能を発揮し、国体に出場するまでになりました。
そんなある日、「サラブレッドの牧場を経営している知り合いがいる。馬が好きなら会ってみたら」と紹介されたのが小川さんでした。小川さんは札幌でIT関連の企業を経営するかたわら、日高町にサラブレッドを生産する三城(さんじょう)牧場を所有していました。年齢差はあるものの、馬好きで意気投合した2人は2011年に結婚。美由紀さんは東京と日高の牧場を行き来し、大好きな馬とふれあう日々を送っていました。「牧場に行き、馬にニンジンをあげたりね。今思えば、本当に穏やかで幸せな時間でした」。しかし2015年に小川さんが膵臓(すいぞう)がんで死去してしまいます。
小川さんは死の間際、痛みに苦しみながらも「君に牧場を託したい」と美由紀さんに告げたそうです。美由紀さんは「手塩にかけて育てた馬たちを放り出すことはできない。やれることをやるしかない」と覚悟を決めました。小川さんの死後、牧場主としての生活を始めます。そんな母の思いに心を動かされた崇文さんも、就職が内定していた企業を断り、大学卒業と同時に牧場の仕事を手伝うようになったのです。
代表就任後の道のりは平たんではありませんでした。小川さんの死は突然で、仕事の引き継ぎはほとんどできないまま。牧場経営はまさに手探りで、周囲からは「絶対に失敗する」との声ばかり。多くの従業員が「突然やって来た素人の女に何ができるのか」と不安をあらわにし、去っていきました。信頼していた人に裏切られることもあったそう。さらに牧場を含めて小川さんには3億円の借金があったことも分かったのです。
美由紀さんは札幌の自宅を売却、自身の貯金もはたいて返済に充てることに決めました。そして牧場にすべてをささげようと、日高町に完全に移住したそうです。
覚悟の改名
2017年、美由紀さんは牧場名を「三城牧場」から「ヴェルサイユファーム」に変更します。大好きだった宝塚歌劇団の代表作「ベルサイユのばら」にちなんだのです。
「名馬を輩出してきたこれまでの牧場名を変えることに悩みはありましたが、自分の方針で牧場運営をしていくという決意表明でした」と美由紀さん。新牧場名を「名前負けするのではないか」と批判する声もありましたが、「この牧場名は私らしさの象徴」と胸を張りました。
「大変な場面では馬が応えてくれ、道を切り開いてくれた」と振り返るように、牧場名変更直後から生産馬の快進撃が続きます。同年にライジングリーズンとミスパンテールが桜花賞に出走。同賞にひとつの牧場から2頭が同時出走するのは珍しく、牧場の知名度は一気に上がりました。
2022年には美由紀さんが直感で種牡馬を決めて生まれたビーアストニッシドが皐月賞、日本ダービー、菊花賞のクラシック3冠にすべて出走。素人と思われていた美由紀さんの残した結果に周囲は目を見張ったといいます。本人は「馬たちの活躍はとてもうれしかったのですが、それがどれだけすごいことか分かっていなくて、周囲が大騒ぎになって驚きました」と笑います。
生産が順調に進む一方、美由紀さんには気になることがありました。崇文さんから「経済動物の競走馬は引退後、繁殖で使えなくなると売却されるのがほとんど。これまで懸命に働いてくれた分、ゆっくり余生を送らせることができないか」との思いを聞き、心を動かされたからです。
牧場を引き継いだ際に育成部門を廃止したため、馬房や牧草地には空きがありました。そこで思い切って、「養老部門」を立ち上げることを決めたのです。
2018年に、かつてジャパンカップを制した名馬「ローズキングダム」を預かったことを機に、養老部門が本格化します。全国から有名馬が寄せられるケースが増えたのです。
現在は崇文さんが近隣の土地に養老牧場「Yogibo(ヨギボー) ヴェルサイユリゾートファーム」を設立、ごろんとクッションに寝転がるコマーシャルが話題を呼んだアドマイヤジャパンをはじめ、タニノギムレットなど26頭が暮らしています。同牧場には全国から競走馬ファンが集まり、引退馬を活用した新たな経営モデルとして注目を集めています。
崇文さんの活動に刺激を受けた美由紀さんが、養老部門を安定的に運営するために始めたのが化粧品事業。サラブレッドの出産後の胎盤から抽出したプラセンタを配合した化粧品をメーカーと共同開発し、3年前から販売を始めました。「せめて、この牧場で生産した馬たちだけでも、ゆりかごから墓場まで見守りたい。命を全うしてもらうために、やれることはすべてやりたいんです」
宝塚歌劇団を退団して40年以上がたちました。「生き物相手の仕事は思い通りにならないことばかり」と話す美由紀さん。出産ラッシュの4月は連日夜通しで馬の状態をモニターでチェック。5月は「馬の母子が寄り添う姿を眺められる幸せな季節」と目を細めます。その後は、競りに向けた準備が始まります。
牧場主として多忙な日々を送る今、タカラジェンヌ時代を思い出すことはほとんどないそうです。それでも、音楽学校時代の「下級生は先輩に笑顔を見せてはいけない」「阪急電車が通り過ぎるまでお辞儀をし続ける」など、さまざまな厳しい規律だらけの日々は特別だといいます。「あの過酷な日々を乗り越えたことが自信になっています。嫌なことはその日のうちに忘れるという習慣もできたんです」と笑顔で振り返る美由紀さん。
タカラジェンヌへの道、小川さんとの再婚、牧場の継承と新事業…。つねに周囲の反対を乗り越え、自身の直感で信じた道を選択してきました。「自分が決めたからこそ悔いはない。とことんやれるとこまでやろうと腹がくくれるんです」
美由紀さんが目指すのは、生産馬の凱旋門賞への出走と、引退した馬が安心して余生を過ごすことができる養老部門の拡充です。凱旋門賞はパリのロンシャン競馬場で行われる世界最高峰のレースのひとつで、日本国内で最上級の活躍をした馬しか出場できません。
「高いレベルのレースで結果を残すことが、養老部門の安定経営につながる。壮大な目標があるからまだまだ頑張れます」と話します。美由紀さんにとって「馬は自分の子供のような存在」。育てた馬たちを「うちの子」と呼ぶ姿に深い愛情がにじみます。華やかなスポットライトの下から、北海道の大自然の牧場に活躍の舞台を移した美由紀さん。「うちの子」とともに挑戦はこれからも続きます。
(参考:北海道新聞電子版)
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