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最近、日中に走っている人の姿をよく見かけます。きっと北海道マラソンに出場するために頑張っているんだろうなと思い、心で応援しています。
北海道マラソン>復活V、翌年のアトランタ「銅」の基点 1995年大会女子優勝 有森裕子さん(56)

1995年の北海道マラソンを振り返る有森裕子さん=2023年5月10日、東京都内(金田翔撮影)
ありもり・ゆうこ 1966年、岡山県生まれ。日本体育大からリクルートに進み、
92年バルセロナ五輪マラソン女子で銀メダルを獲得。96年アトランタ五輪の選考
レースとなった95年の北海道マラソン女子で優勝。アトランタ五輪銅メダル。日本
陸上競技連盟副会長を務める。

1995年の北海道マラソン女子で優勝し、笑顔でゴールする有森裕子さん
3年ぶりとあって、私は忘れられかけた存在だったと思います。96年アトランタ五輪の選考大会ではありましたが、このレースで決めるつもりは全然なく、むしろ近しい人ほど「この大会で引退するのでは」と思っていたのではないでしょうか。
当時はチーム(リクルート)に結構良い選手がいたので、(小出義雄)監督は大会前の私の練習を見ておらず「(2時間)38分ぐらいで来ればいいんじゃないか」って。練習メニューをもらって、米コロラド州のボルダーでトレーナーと2人だけで合宿していました。メニューはこなせたので、大会を走ってみようと。誰も見ていない中でやっていて、アウトオブ眼中の存在でしたね。大会前、久々にサインを求められ、ものすごく感動したことを覚えています。自分もまだ求められているのだとわかり、感謝しかなかったです。
大会に出ていなかったので、ユニホームもなかったのです。夏のレースということで、バルセロナ五輪でとても涼しく感じたメッシュの上着を着たかったのですが、普段使っているメーカーにお願いしたら「うちでは作っていない」とあっさり言われました。全然出ていない一人の選手のためには作れないということでしょう。別のメーカーに頼んで、即席で作ってもらいました。

1995年の北海道マラソンの40キロ付近で、沿道の声援を受けながら力走する有森裕子さん=95年8月27日、札幌市中央区大通西4
アトランタ五輪に向けては、バルセロナの時に続いて選考を巡る問題が起こり、この優勝ですんなり(五輪出場が)決まったわけではないのですが、優勝がなければ私のアトランタはなく、アトランタがなければ今の私はない。大きな大きなターニングポイントでした。五輪が終わってだいぶたったころ、北海道マラソンで泊まったホテルで講演した際、控室からゴールのあった場所が見え、不意に号泣してしまいました。イケイケドンドンじゃない時期の自分を支えてもらった場所だから、余計に思い入れがあります。

1995年の北海道マラソンを制し、優勝杯を高々と掲げる有森裕子さん=95年8月27日、札幌市内
北海道は、私がマラソンを始めるきっかけになった地です。入社1年目、国体の1万メートルの出場を目指していたのに、周囲の手続きの不備で出られなかったのが悔しくて、それならマラソンをやらせてほしいと監督に訴えたのが、士別市での合宿中でした。最初は30キロを走るのに3時間近くかかりました。ただ、スピードはないが、ペースが落ちず、持久的な筋力があると、監督が私の可能性を見いだしてくれました。

2016年の北海道マラソンでスペシャルアンバサダーを務め、ランナーを激励する有森裕子さん=16年8月28日、札幌市中央区(北波智史撮影)
それに、一般参加のランナーに北海道のことを知ってもらう良い機会です。北海道の人たちが、北海道の人たちのために歴史をつくっていくマラソン大会であってほしい。アスリートが残す好記録も関心事ではありますが、新型コロナウイルス禍や東京五輪・パラリンピックを経験した今、スポーツが社会とともにあり、地域の人を元気にできているかが、大会の価値になっていると私は感じています。地元が盛り上がっていれば、道外からも自然と人が集まってくるはずです。
(参考:北海道新聞ニュースエディター)
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