この記事を読むのに必要な時間は約 5 分39 秒です。
最近、日中に走っている人の姿をよく見かけます。きっと北海道マラソンに出場するために頑張っているんだろうなと思い、心で応援しています。
北海道マラソン>復活V、翌年のアトランタ「銅」の基点 1995年大会女子優勝 有森裕子さん(56)
夏の道都・札幌を走る「北海道マラソン」(北海道新聞社、北海道陸上競技協会などでつくる組織委員会主催)が8月27日に開催されます。ランナーや沿道ボランティアなどゆかりの人たちに、大会の魅力や完走のためのコース攻略、道マラならではの楽しみ方を深く掘り下げて“ディープに”語ってもらいます。
1995年の北海道マラソンを振り返る有森裕子さん=2023年5月10日、東京都内(金田翔撮影)
ありもり・ゆうこ 1966年、岡山県生まれ。日本体育大からリクルートに進み、
92年バルセロナ五輪マラソン女子で銀メダルを獲得。96年アトランタ五輪の選考
レースとなった95年の北海道マラソン女子で優勝。アトランタ五輪銅メダル。日本
陸上競技連盟副会長を務める。
北海道マラソンが行われた1995年8月27日の札幌は曇りで、それほど暑くもなく、ゴール地点の中島公園は小雨が降っていました。「松尾君と三浦君が天国でビールでも飲んで、泡で曇らせてくれているのかな。見守っててよ」。そんなことをつぶやきながら走りました。
2人は日体大の同期でした。広島で学生に陸上を指導していた三浦(学)君は大会の10日ほど前、交通事故で帰らぬ人になりました。エスビー食品に所属していた松尾(昌徳)君は、90年に常呂町(現北見市)で合宿の移動中に事故で亡くなっています。
92年のバルセロナ五輪以来、3年ぶりのマラソン。94年に両かかとを手術したこともあり、とにかく1本、どこかで走らないと、走る気持ちがどうなるかわからないという状態でした。まだ走れるのか、もう走れないのか、早く確認したくて、一番近いレースが北海道マラソンだったのです。そんなとき、三浦君の訃報に接し「苦しいことを味わえるのも、生きてるってことなんだ。私は甘い」と考え直しました。2時間29分17秒の大会新記録(当時)で復活優勝できたのは、2人が私の甘さを気付かせてくれたおかげです。頑張ろうと誓い合った友達が志半ばで倒れ、まだ生きている私には役割、役目があるのだとの思いを強くしました。
た。
1995年の北海道マラソン女子で優勝し、笑顔でゴールする有森裕子さん
3年ぶりとあって、私は忘れられかけた存在だったと思います。96年アトランタ五輪の選考大会ではありましたが、このレースで決めるつもりは全然なく、むしろ近しい人ほど「この大会で引退するのでは」と思っていたのではないでしょうか。
当時はチーム(リクルート)に結構良い選手がいたので、(小出義雄)監督は大会前の私の練習を見ておらず「(2時間)38分ぐらいで来ればいいんじゃないか」って。練習メニューをもらって、米コロラド州のボルダーでトレーナーと2人だけで合宿していました。メニューはこなせたので、大会を走ってみようと。誰も見ていない中でやっていて、アウトオブ眼中の存在でしたね。大会前、久々にサインを求められ、ものすごく感動したことを覚えています。自分もまだ求められているのだとわかり、感謝しかなかったです。
大会に出ていなかったので、ユニホームもなかったのです。夏のレースということで、バルセロナ五輪でとても涼しく感じたメッシュの上着を着たかったのですが、普段使っているメーカーにお願いしたら「うちでは作っていない」とあっさり言われました。全然出ていない一人の選手のためには作れないということでしょう。別のメーカーに頼んで、即席で作ってもらいました。
どこまで走れるか、私自身も未知数だった中での優勝は奇跡的でした。独走というか、とにかく「逃げ」でした。(2位に入った)山口衛里ちゃん=天満屋=が強いのはわかっていたので、とにかく逃げようと。男女混合のレースに出たのは初めてで、走り方がわからなかったのですが、男子に紛れて姿を隠し、縫うように走っていた記憶があります。まさか勝てると思っていなかったので、レースプランなんてゼロでした。
応援に来ていた両親も驚いたと思います。ゴールでは母が、ヒマワリの花束を渡してくれました。1本でも力強く太陽に向かって咲く、私の大好きな花です。その中に「フェニックス」という花を交ぜてくれました。不死鳥ですね。
1995年の北海道マラソンの40キロ付近で、沿道の声援を受けながら力走する有森裕子さん=95年8月27日、札幌市中央区大通西4
アトランタ五輪に向けては、バルセロナの時に続いて選考を巡る問題が起こり、この優勝ですんなり(五輪出場が)決まったわけではないのですが、優勝がなければ私のアトランタはなく、アトランタがなければ今の私はない。大きな大きなターニングポイントでした。五輪が終わってだいぶたったころ、北海道マラソンで泊まったホテルで講演した際、控室からゴールのあった場所が見え、不意に号泣してしまいました。イケイケドンドンじゃない時期の自分を支えてもらった場所だから、余計に思い入れがあります。
1995年の北海道マラソンを制し、優勝杯を高々と掲げる有森裕子さん=95年8月27日、札幌市内
北海道は、私がマラソンを始めるきっかけになった地です。入社1年目、国体の1万メートルの出場を目指していたのに、周囲の手続きの不備で出られなかったのが悔しくて、それならマラソンをやらせてほしいと監督に訴えたのが、士別市での合宿中でした。最初は30キロを走るのに3時間近くかかりました。ただ、スピードはないが、ペースが落ちず、持久的な筋力があると、監督が私の可能性を見いだしてくれました。
(陸上)トラックでなく、ロードは私に向いていました。広い北海道のどこまでも延びる道を気持ち良く、自分のペースで、距離を延ばしました。長い距離を走れるようになると、例えば5000メートルなんて最初から最後まで全力で行けるようになり、どの距離もどんどん自己ベストが出ました。その流れで、90年の大阪国際女子マラソンで初マラソンの日本女子最高記録(2時間32分51秒)=当時=を打ち立てました。そこからですね。
故障が多い私に監督が言ったことで、よく覚えているのは、「なんで」ではなく「せっかく」と思え、ということでした。「なんで、こうなったんだろう」と考えると気持ちがネガティブになりますが、「せっかく、こうなったんだから」と考えれば、今できることをやろうと前向きになります。不測の事態への順応性を高め、全てを力に変えようとする発想です。
と同じ時期に開かれるため、トップ選手が来ることは難しいですが、次世代の「ネクストヒロイン」を発掘、強化する意味で、とても重要な大会です。暑い夏のレースに焦点を合わせる体験ができる貴重な大会でもあるので、選手にはちゃんとした計画性やビジョンを持って、暑さへの対応を鍛えに来てほしいですね。
2016年の北海道マラソンでスペシャルアンバサダーを務め、ランナーを激励する有森裕子さん=16年8月28日、札幌市中央区(北波智史撮影)
それに、一般参加のランナーに北海道のことを知ってもらう良い機会です。北海道の人たちが、北海道の人たちのために歴史をつくっていくマラソン大会であってほしい。アスリートが残す好記録も関心事ではありますが、新型コロナウイルス禍や東京五輪・パラリンピックを経験した今、スポーツが社会とともにあり、地域の人を元気にできているかが、大会の価値になっていると私は感じています。地元が盛り上がっていれば、道外からも自然と人が集まってくるはずです。
(参考:北海道新聞ニュースエディター)
【スポンサーリンク】
コメント 感想やご意見をお願いします