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なまらあちこち北海道|今も残る渋沢栄一の跡・小樽

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渋沢栄一と小樽には深い縁があることをご存知でしょうか。「日本銀行」の小樽支店や「渋沢倉庫」と名前の付けられた複数の倉庫、その足跡をご紹介。

運河沿いの「旧渋沢倉庫」や新1万円札の見本…今も小樽に残る渋沢栄一の跡

 小樽市色内の小樽運河沿いにある木骨石造の建物。大小三つの倉庫が重なっているような外観で、市の指定歴史的建造物となっている「旧渋沢倉庫」だ。現在、内部は倉庫ではなく、カフェなどとして活用されており、景観とともに、運河観光に一役買っている。

 名前の通り、建物は、渋沢栄一が創業した倉庫業の「渋沢倉庫」が、かつて倉庫として使っていた。同社が1915年(大正4年)、東京以外で初めて出張所を開設したのが小樽市だった。

 小樽港を擁し、大正から昭和初期にかけて北海道の金融の中心地だった小樽。日本銀行が支店を置き、ピーク時は、市内に25行もの銀行が軒を連ねる銀行街ができていた。その中には、渋沢が創設し、後に頭取を務めた国内初の銀行「第一国立銀行」から改組した第一銀行の小樽支店もあった。

 渋沢倉庫のホームページなどによると、小樽出張所の開設は、近代的な倉庫会社の設置を求める地方銀行からの要請を受けたためとされ、小樽の繁栄によるものだったといえる。

 小樽の歴史に詳しいフリーライターの盛合将矢さん(38)は、当時について「海運と鉄路があり物流の交差点。お金が動き、人、モノ、情報も一度小樽に下りてから、札幌や函館に向かっていた」と解説する。

 渋沢栄一記念財団の「渋沢栄一伝記資料」によると、渋沢が1908年(明治41年)8月に小樽を訪れた際には地元で歓待を受けた。そしてイルミネーションが輝く夜景を見た感想を「夜色 もっと も 佳絶かぜつ (=この上なくよい)なりき」と絶賛していた。

 第一銀の小樽支店だった建物は現在、洋服工場として使われている。また、同じく銀行街の一角を占めた日銀小樽支店は2002年に廃止され、金融資料館になっている。そこでは、7月発行の新1万円札の見本を展示している。

 偽造を防止する新たなホログラム技術で、お札を見る角度が変わると渋沢の肖像画が横を向き、桜の花びらが左右に回転する。

 大阪府から訪れた地方公務員の女性(62)は、「渋沢は大河ドラマで激動の人生を送ったことを知った。新札は、偽造防止の肖像画が印象的」と語った。

 盛合さんは、「お札の顔になったのを機に、渋沢が参入して日銀も支店を置くほどの経済都市だったという小樽のすごさを掘り起こして広く伝えていきたい」と話す。

(参考:読売新聞オンライン)

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