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日本ハム、札幌ドームで28日ラストゲーム 19年間の軌跡
来春から北広島市に本拠地を移すプロ野球北海道日本ハムが28日、札幌ドームでの最終戦を迎える。2004年の北海道移転から19年、同球場を舞台にファンとともに多くの歴史を刻んできました。
指揮官だった梨田昌孝、栗山英樹両氏のインタビューと写真で数々の名場面を振り返ります。(担当記者、前田健太、半藤倫明、大矢太作)
想い出の写真
「本拠地開幕戦」=2004年4月2日
北海道移転後初となる本拠地での公式戦を前に、札幌ドームの入場ゲートでファンを出迎える日本ハムナイン。球史に刻まれる道内開幕戦には3万5千人が詰め掛け、西武に5―1と快勝しました。記念すべき1勝に道内が沸き立ち、ファンに愛される「道民球団」の歴史が始まったのです。
試合前、新庄剛志選手が札幌ドームの高さ約50メートルの天井裏から台座に乗って守備位置に降り立つパフォーマンスを披露しました。満員の観客はどよめき、カメラのストロボが絶え間なくたかれました。新庄選手はこのほかにも、かぶり物を着用したり、バイクに乗ったりと、奇想天外な演出でファンとチームを盛り上げました。
日本ハム在籍7年間の通算成績は93勝38敗、防御率1.99。日本球界の「希代の投手」に成長し、大リーグに乗り込みました。
ソフトバンクと対戦したパ・リーグのクライマックスシリーズ・ファイナルステージ第5戦。3点リードで迎えた九回、マウンドに向かったのは、指名打者で出場した大谷翔平選手でした。満席のスタンドがどよめく中、大谷選手は日本最速(当時)となる165キロを3度マーク。圧巻の投球で締めくくり、チームを日本シリーズに導いたのです。
励まされたピンチでの拍手 梨田昌孝元監督
<財産>
札幌ドームの思い出は、何試合もありますよ。特に、2008年の開幕戦(注1)は印象深い。エースのダルビッシュ有が完封し、最高の結果で初陣を飾ったことで、日本ハムの監督として手応えを感じることができました。
09年は、リーグ優勝を決めたのも、クライマックスシリーズ(CS)を勝ち抜き日本シリーズ進出を決めたのも札幌ドーム。ダルビッシュの負傷離脱など苦しいシーズンだったけど、本拠地で勝てたことは大きな財産。11年4月17日、斎藤佑樹の初登板初勝利も感慨深かったね。「なんとか勝たさないかん」と、彼に勝ちを付けるための継投策を考えました。
04年まで5年間務めた近鉄の監督時代から札幌ドームの思い出はあります。特に覚えているのが、04年9月17日の日本ハム―近鉄戦。試合中、近鉄のベンチで僕が腕組みをしながら立っていると、(当時の近鉄選手会長だった)礒部公一が近くに来て「監督、ストが決まりました」と話をされ衝撃を受けました(注2)。
札幌ドームは本当に広く、フェンスが高い。そこで、チーム本塁打が年間200本以上の「いてまえ打線」を売りにした近鉄時代とは正反対の、投手を中心とした「1点を守り抜く野球」を目指しました。守る野球の方が面白いし、好投手を前にすると計算できない打つ野球よりも、勝つ確率は高いから。
<作戦>
選手の長所と短所、球場の特性、お客さんの気質を味方にしないと勝てない、というのが僕の考え。幸い、投手陣はダルビッシュをはじめ、(ライアン)グリンや(ブライアン)スウィーニー、武田勝、武田久など豊富だった。野手では、金子誠や田中賢介、小谷野栄一ら守備に定評のある選手がいた。そして、広いドームに適応したのが糸井嘉男。肩の強さと走力を兼ね備えた広い守備範囲を持つ彼と出会えたことは良かった。人材を発掘するという点でも楽しかったですね。札幌ドームを最初に観察して、攻撃面では機動力を生かし、バントやエンドランなどいろんな作戦をやらないと「勝つのは無理だな」と直感しましたね。
<声援>
近鉄時代は、ファンの声によって采配に迷いが生まれることがあった。試合中にやじられると、試合の勝負どころで決断し切れなくなる。でも、北海道でやじは一切なかった。むしろ、大きな声援で背中を押してもらった。試合後のファンへのあいさつでは、帽子を取って手を振る際、心の中で「ありがとう」といつもつぶやいていました。
北海道のファンは温かい。日本ハムの投手が(カウントが)3ボールになった時に送られる励ましの拍手は、それを象徴している。実を言えば、拍手を聞いた時に最初は「逆に投手にプレッシャーにならないか?」と思い、しばらく慣れなかった。だけど、そういったピンチの時に応援してくれるという温かさは本当にありがたかったですね。
注1 2008年3月20日、梨田監督就任後初の開幕戦。ロッテを相手にダルビッシュ有投手が4安打完封し、1―0で勝利。開幕戦の完封は球団では9年ぶりだった。
注2 2004年、近鉄とオリックスの球団合併に端を発した球界再編問題を巡り、球団数削減に反対した日本プロ野球選手会が同年9月18、19日、史上初のストライキを決行。同問題を機に仙台に楽天が誕生、翌05年から参入した。
守り勝つ野球学んだ「相棒」 栗山英樹前監督
<印象>
監督に就任して、札幌ドームに抱いた印象はまず「広いなぁ」。広さを生かすには外野手のスピード、肩の強さは重要だと思いました。当時は陽岱鋼、糸井嘉男、中田翔という若い3人がいて、あの頃は翔も脚を使えた。そういう意味でも3人がいたことはすごく大きかった。チームが勝つための形というものができました。
俺は札幌ドームは「相棒」だと思っていました。この球場を生かして勝つことだけしか考えていませんでした。札幌ドームの戦いは「野球の原理原則」の方向に向きやすかった。ホームランで打ち勝つという発想は難しい球場で、脚を使って丁寧な守備をして、投手中心の守りがしっかりしないと勝てない。多くのことを学ばせてもらいました。
一番印象に残っているのは、やっぱり監督に就任して、初めての試合で勝てた2012年の開幕戦(注3)。勝負事だから、監督は確率を求めて勝たせなければいけないんだけど、最初の試合だからこそ、純粋に自分の思っていることをやりたいと、ロマンを求めました。ファンも(斎藤)佑樹の勝利が見たいと応援してくれた試合。そこで選手たちが期待に応えて結果を出してくれてすごくうれしかったことを覚えています。
たまたまだけど、あの日は父の命日でした。野球好きだった父が天国で見てくれているのかなと感じました。その日に監督をスタートさせたことも印象深かったです。
<覚悟>
決断が一番難しかった試合は、16年のクライマックスシリーズ(CS)でのソフトバンク戦(注4)で、3点差の最終回に(大谷)翔平をマウンドに上げたことです。あの時はレギュラーシーズンを1位通過しましたが、強いソフトバンクにCSで負けてしまうことが一番怖かった。少しでも受けたり、引いたりするとのみ込まれてしまうと危機感を持ちながらCSは挑んでいました。
ただ、もし翔平を投げさせて打たれた場合、次の試合は勝てないなと思う怖さもありました。それでも「今日使い切る、出し切るんだ」と腹をくくってマウンドに送りました。広い札幌ドームで「大谷翔平」だったら、四球さえ連発しなければ、あまり連打されるイメージもなかったから、そういう意味では球場も含めて決断しやすかったというのはありましたよね。ただ、終わるまでは生きた心地がしなかったことを今もよく覚えています。
<奇跡>
ファンの熱さ、思いで奇跡を何度も起こしてもらいました。本当に感謝しかありません。ファンがいないとドラマ、奇跡というのは起こりにくい。コロナ禍で無観客を経験し、その思いはより強くなりました。「稲葉ジャンプ」なんて、ファンの力で空気を一変させてくれます。球場も揺れるけど、「野球」も揺らしてくれました。誰かに引き継いでほしかったなぁ。新球場でもぜひ、あのような応援をやってほしいです。
注3 2012年3月30日、栗山監督就任後初の開幕戦で斎藤佑樹投手を開幕投手に抜てき。斎藤投手は西武を9回1失点に抑え、自身初の完投勝利を挙げた。
注4 2016年10月16日、CSファイナルステージ第5戦。栗山監督は九回、「3番・指名打者」で出場していた大谷翔平選手をマウンドに送った。大谷選手は日本プロ野球史上最速(当時)の165キロを3球投じるなど、無失点に抑えた。
<略歴>なしだ・まさたか 1953年、島根県出身。地元浜田高から72年近鉄入団。捕手として強肩と勝負強い打撃を武器にプロ17年間で1323試合出場。近鉄(2000~04年)、日本ハム(08~11年)、楽天(16~18年)で監督を務め、近鉄と日本ハムでリーグ制覇。
<略歴>くりやま・ひでき 1961年、東京都出身。84年にヤクルト入団。89年にゴールデングラブ賞を受賞、90年に引退した。2012年~21年まで日本ハム監督。16年の日本一を含む2度のリーグ制覇を達成し、通算684勝は球団最多。昨年12月から日本代表監督。
28日、球場で号外配布
北海道新聞社は、日本ハム札幌ドーム最終戦となる28日に号外を発行し、球場で配布します。
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