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なまらあちこち北海道|ムツゴロウさんを悼む

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ムツゴロウこと畑正憲さんが亡くなりました。「ムツゴロウ王国」などで北海道とも縁が深かった畑さんに道内からも多くの別れを惜しむ声が届いています。

ムツゴロウさん「唯一無二の存在」 道内から悼む声

 「ムツゴロウさん」の愛称で親しまれた作家の畑正憲さんは、動物に深い愛情を注ぐ姿が多くの人を魅了しました。畑さんと共に動物の世話をするようになり、後に畑さんの娘と結婚した根室管内中標津町の津山剛さん(61)もその一人。6日、取材に応じ「世界中探しても他にいない、唯一無二の存在だった」と別れを惜しんでいます。
ムツゴロウ王国の畑正憲さん(中央)らスタッフ=2004年7月

ムツゴロウ王国の畑正憲さん(中央)らスタッフ=2004年7月

沖縄県出身の津山さんは、小学生のころから畑さんの本を読んで憧れを抱いていました。約40年前、会いたい気持ちを抑えきれず釧路管内浜中町にあった畑さんの牧場を訪ねると、畑さんは「沖縄から来たのか」と驚き、快く受け入れてくれました。
 ヒョウとじゃれあったり、大きなゾウの足を肩に乗せたり。中指をライオンに食べられたこともありましたが、決して怒りませんでした。晩年は病のため大好きな乗馬ができなくなり、牧場の来訪者が馬に乗る姿を見て「悔しい」と口にしていました。最後まで愛情は変わりませんでした。
 5日午後5時ごろに自宅で倒れ、そのまま亡くなりました。「最期は苦しまず家族でみとった。一緒に過ごせて幸せだった」と死を悼みました。
 中標津町の畑正憲さんの家のそばで「石川百友坊(ひゃくゆうぼう)」を主宰し、たくさんの犬や猫などの動物とともに暮らしている石川利昭さん(73)。「動物王国」の主要運営メンバーだった石川さんは次のように語っています。
 「ムツさんとの思い出はたくさんありすぎて。今は『ありがとうございます』と伝えたい。動物と接する際に、たくさんの『具体』を教えていただいたことに感謝します。つまり、ただ、かわいがるのではなく、皮膚の状態やらさまざまな健康状態を確認して接するということ。『ふれあい』という言葉は僕は嫌いだけれど、ともに暮らすのであれば、そうした接し方が大事であると学びました。
 海外にもよく一緒に行きました。アラスカとか、北極とか、台湾とか。ムツさんのすごいところは、全然言葉が通じなくても、あの笑顔と、頭にアクセントのついた明るい呼びかけで、一瞬にして周囲を笑顔にしてしまうことでした。
 動物王国では僕たちにやりたいことをさせてくれました。私も女房も、動物のレスキューをやりたかったんです。アザラシやキツネや、随分野に返したのだけれど、お金のことは一切言いませんでした。
 ムツゴロウさんは指導というものはあまりせず、記憶に残っているのは英語ぐらいですね。20年前ぐらいまで、ムツさんが学習書をもってきて、王国の人たちに訳させていました。ムツゴロウさんがどのような人かを表すのは難しいけれど、科学者でした。そして作家でした。科学論文の難しい言い回しを、わかりやすい言葉と動きで皆さんにプロデュースする、メッセンジャーでしたね。
 最後に会ったのは昨年の11月末ごろ。当時、退院したムツゴロウさんの自宅を家族で訪ねる機会がありました。とてもうれしそうに迎えてくれて、逆に自分の体調を気遣ってくれるほどでした。ムツゴロウさんには、まず、お疲れさま、と言いたい。まだまだたくさん、書きたいこともあっただろうなとも思います」と語っていました。
体重160キロのクマの背に乗ってご満悦のムツゴロウさん

体重160キロのクマの背に乗ってご満悦のムツゴロウさん

 中標津町内・青い鳥動物病院の中田千佳夫院長(72)は、1980~85年、ムツゴロウさんの中標津の自宅に居候し、テレビ番組「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」などの企画製作に協力していました。
 「きっかけは1976年ごろ、自分が野鳥の調査で霧多布あたりをウロウロとしていたころです。弟子屈のばんばを見に行ったとき、たまたまムツゴロウさんがその場にいました。『われら動物みな兄弟』などを読んで、わかりやすい言葉でかつ、科学的なバックを持ってしっかりと話す人だと思っていたので、自分から声をかけました。その場で意気投合し、『一回、遊びに来なさい』と。浜中の動物王国で夕食を食べ、話し始めたらとまらなくなり、結局その場で一晩泊まることになりました。
 1980年、『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』をやるときに、畑さんから『手伝ってください』と打診がきました。そのころ、自分は仕事もなかったので、その話に乗りました。それで、4月からムツゴロウさんと『同棲(どうせい)』し始めたね。中標津の自宅が建った頃です。私は浜中にはほとんどいかず、中標津ばかりですね。
 同棲はムツゴロウさん、奥さん、それからムツゴロウさんのおばあさん、それから自分。そのあと、テレビのスタッフも出入りするようになりました。自分は居候。寺のお坊さんと一緒で、飼っている犬などのお世話と、掃除なんかしていました。
 近くにクマがいた、白鳥を上が通った、などといった日常的な話からでも、頭の中で物語をあっという間に構成していっていました。日常的に話す魚、鳥の話、ナキウサギの話、クマの話。それを彼なりに聞いて、あっという間に自分の頭の中でストーリーを書き上げ、企画の中でそれを出す、天才でしたね。
 いつだったか忘れたけれど、うずくまった子鹿を保護する人がいて、『捨てられていた!』といって抱いて自分たちのところに持ってきたことがありました。本当は隠れていただけなんだけど、外に返してあげなさいと言うわけにもいかず、保護することになったんです。そしたら、彼は『子鹿物語』という企画をとっさに思いつく。頭の中に、ワタスゲの草原の中に子鹿がうずくまっていて…なんていう風景が浮かぶんでしょうね。それを時期にあわせて、スタッフを呼んでコンテを描いて映像化しちゃう。企画能力がすごい。
 それから、ものすごい勉強家、書斎の整理をするのは自分でしたが、天井まである本棚には動物関係に限らず、あらゆる分野の本が並んでいました。そして、一度書斎に入るとずーっと出てこないんです。
 それから、動物との関わりはものすごく慎重。いかにけがをしないかを考えていました。テレビで出ているじゃれ合う場面の、その前の段階では非常に慎重でした。これなら大丈夫、というところまで練ってから、キスしたり、じゃれ合ったりしていました。自分も相手も、お互い怖がらせないというのがありました。自分が神経をとがらせると動物もすぐわかる。そのへんを映像に映る前の段階まで見計らっていたんです。一緒にオーストラリアに行ったときも、ウォンバットを抱くときなどはものすごい慎重でしたね。
 映画『子猫物語』が完成し、区切りを付けようと思って、その年に独立して今の動物病院を開業しました。それ以降、向こうも忙しいし、自分から会いにいくことはほとんどなくなってしまいましたね。時々、奥さんが動物病院に動物持ってきてくれることはあるけれど。でも、気にはかけてくれていました。
 楽しんで生きてたし、文筆家だから、大変なエネルギーもいるし、苦しくもあったかもしれない。でもほっとしたのではないか」と悲しんでいました。
畑正憲さん一家に、子グマ一頭が“養子縁組み”することになった

畑正憲さん一家に、子グマ一頭が“養子縁組み”することになった

 また、中標津町の西村穣町長(67)は「1995年から10年間、中標津町総合文化会館の名誉館長として、町民に講話していただきました。町の知名度向上への貢献にも感謝しています。まだまだご活躍いただきたかったのですが、急な話でとても残念です。囲碁がとても強かった人なので、個人的には一度対局してみたかったですね」と惜しんでいました。
 旭川市旭山動物園の坂東元園長(62)も畑正憲さんから影響を受けた1人。中高生のころは畑さんの著書を愛読し、出演番組も毎週欠かさず見ており「一般に知られていない生き物や野生動物の世界に入りこみ、多くの共感と刺激を与えてくれました。獣医師を目指す原点だった」と振り返っていました。
 2011年には、同市内で開かれたフォーラムで畑さんと対談。坂東園長は「何歳になっても前向きで、動物と同じ感性で活動していました。わたしたちの世代にとっては憧れの存在で、自分もそうでありたいと思いました」と惜しんでいます。
 「信念のある熱い人だった」。元釧路市教育長の山田和弘さん(80)=釧路市=は20年ほど前、自然の中で生きる力や子どもの教育について、畑さんと夜通し語り合った記憶を呼び起こします。
 畑さんは、電気やガスのない山小屋を子どもたちの野外活動のために開放していた山田さんの活動に共感。「子どもたちのためにできることをしよう」と約束しましたが、旧動物王国の撤退でかないませんでした。「畑さんとなら、きっと面白いことができたはず。また話したかった」と惜しんでいます。
 1971年には、阿寒湖に生育する国の特別天然記念物「阿寒湖のマリモ」の水中映像を、旧阿寒町からの依頼を受け、畑さんらでつくる学習研究社の調査隊が初めて撮影しました。
 当時は観光客や関連施設の増加で湖の環境が変わり、マリモの生育量が減少していた時期です。すでに畑さんは「ムツゴロウ」として知られており、釧路国際ウェットランドセンター阿寒湖沼群・マリモ研究室の若菜勇室長(65)は「記録として貴重な映像や写真を残すだけでなく、マリモへの社会の関心を高め、保護する意義について理解を広めてくれました」と語っています。
 知床国有林の伐採問題では、自然保護団体の関係者らとともに反対運動に尽力しました。1986年8月にオホーツク管内斜里町で開かれたシンポジウムでは、伐採計画を発表した林野庁の担当者らと激論を交わし、運動の輪を広げました。
知床国有林の伐採反対を訴える作家の畑正憲さん=東京・四谷公会堂

知床国有林の伐採反対を訴える作家の畑正憲さん=東京・四谷公会堂

 同月、畑さんは北海道新聞の「シリーズ評論」に寄稿し「自然林の中の巨木こそが、自然の命、動物の命をつなぐものなのである」と訴えました。
 反対派の知床自然保護協会(斜里)で当時、事務局長を務めていた中川元さん(72)は「豊富な動物の知識と作家としての表現力で、計画が浮上した当初から伐採が及ぼす影響を訴え続けてくれました。伐採問題の解決が知床の世界自然遺産登録にもつながっており、反対活動を進めてくれた畑さんの訃報は大変ショックです」と声を落としていました。
 一方で、マージャン好きの顔もありました。
 釧路管内浜中町で、畑さんと50年近い交流があった関上伸一さん(75)は「とにかく強かった。楽しかった、本当に」と振り返ります。
 「24、25歳のころ、(自宅が)呉服店をやっていた関係で、動物王国の従業員のシーツやセーターなど衣類を買ってくれ、ひいきにしてもらっていました。
 畑さんはふだん会うと、苦虫をつぶしたような顔をしていて近寄りがたかったのですが、マージャンをやるときは違っていました。やっているときにニヤッと笑うこともありました。
 浜中に動物王国をつくったころのことですが、真冬の吹雪の日にマージャンをしに行っきました。停電していたがろうそく4本を立てて、マージャンを朝までやりました。帰ろうとしたら、雪が積もっていて帰れなくなったんです。一宿一飯で馬にえさをやりました。2日ぐらい泊まって、マージャンをやるときは徹夜。正月は2日、3日と寝ないでやりました。若かったからできたんですね。今から50年ぐらいの話です。
 中標津には子どもたちを連れていき動物たちと遊ばせてもらいました。そのときは、ロッキーというツキノワグマを抱っこしながらマージャンをやっていました。手長ザルだとかいろんな動物がいましたね。動物に対して、いろいろ興味を持たせてもらえたし、芸能界のいろんな人にも会わせてもらえました。いろんな人とお付き合いができて楽しかったです」と繰り返し感謝しています。
 そのロッキーを世話していたのが、ムツゴロウ動物王国(浜中町)の元スタッフで、ギタリストの藤本祐治さん(67)=北九州市在住=です。「動物たちと心で通じ合っていました」。畑さんが「一緒に遊ぼう」と声をかけた子馬が、うれしそうに飛び跳ねた光景が忘れられません。
 藤本さんは畑さんのエッセーに共感し、24歳で旧動物王国のスタッフに。畑さんの依頼で、2004年の王国閉鎖から15年間、東京への移送が難しかったツキノワグマの「ロッキー」の世話を1人で続けました。
 「ムツさんは動物を飼育するのではなく、『一緒に暮らす』という考えでした。やりたいことは、まだまだあったはず」と話しています。
 昨年10月、釧路市内でライブを開いた後に畑さんを訪ねました。畑さんは体調が優れない様子でしたが、藤本さんに笑顔を向けてくれたそうです。「『俺もまだまだ頑張るよ。君も音楽続けてね』と励ましてくれました。本当に残念」としのんでいました。
“ムツゴロウ”畑正憲さん死去、87歳 浜中に「動物王国」
畑さんのご冥福をお祈りします。
(参考:北海道新聞ニュースレター)

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